【豊見城】県高校野球連盟顧問の國吉眞介さん(77)=豊見城市我那覇=は、高校野球に関する新聞記事を46年間欠かさずに切り抜き、冊子にまとめてきた。自らも高校球児で、高校教諭時代は野球部の監督を務めるなど、生涯を通して野球に情熱を注いできた。「私の人生は野球一筋。野球を取ったら何も残らないよ」と懐かしそうに当時を振り返った。
琉球新報と沖縄タイムスの切り抜きを始めたのは1970年3月11日。現在、琉球新報が165冊目、沖縄タイムスが163冊目を数える。きっかけは、県高校野球連盟が72年に発行した「県高校野球五十年史」の編集委員に加わったことだ。当時、委員の中で一番若く、「足りない資料があるから新聞社で集めてきなさい」と先輩たちから指示を受けた。國吉さんは資料集めに奔走。「新聞社に通い詰め、とても苦労したことを覚えている」と話す。
その後も2巻、3巻と発行されることを考え、記事の切り抜きが習慣化した。試合の記録だけでなく、記者が伝える試合の読みもの、選手や監督、チームに焦点を当てた舞台裏の話題ものなども楽しみにしている。
琉大卒業後に高校教諭となり、赴任した糸満高、小禄高、南風原高で野球部監督を務めた。特に記憶に残っているのは、南風原高に赴任して2年目で、チームを春の県大会優勝に導いたことだ。「運動場は狭くて、他校のグラウンドを借りて練習する日々。部員たちは高校で初めて野球をやるという子も多かった」と当時を語る。妻の英子さん(74)は「ひたすら野球にいちずで、『鬼の監督』と呼ばれ、生徒から恐れられていた時期もあった」と証言する。
1999年に那覇西高校校長を最後に定年を迎えた國吉さん。学校現場での仕事を切望していたが、40代半ば以降は、海邦国体事務局、県教育庁と行政畑を歩むことになり、学校現場を長年離れることになった。「野球を通して生徒と関わり合える現場にいたかった。それだけが心残りでね」
手にした高校野球の記事をめくりながら、当時の記憶をたどった。(大城三太)