戦の傷痕 記憶継ぐ 遺族ら慰霊祭で祈り 米軍LCT事故


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犠牲となった父の遺影を持ち、慰霊祭に出席した主和津ジミーさん(中央)と娘のメアリーさん=6日、伊江港

 【伊江】米統治下の1948年8月6日、「波止場事件」と呼ばれる伊江島の波止場で起こった米軍爆弾処理船(LCT)爆発事故の犠牲者を悼む慰霊祭が6日、伊江港内の慰霊碑前で行われた。遺族をはじめ、島袋秀幸村長や村議会議員、各区長ら約60人が出席した。

 終戦後、米軍により渡嘉敷村や座間味村に強制移送された村民の帰島が許された47年3月。島の北海岸一帯には戦時中の不発弾や未使用爆弾など野積みされた砲弾が集積されていた。島民からの処理要請を受け48年7月、米軍は爆弾の海洋投棄を始めた。

 事故は、LCTと呼ばれる軍の揚陸艇に爆弾を積む作業中に荷崩れを起こし、5千発の爆弾が船ごと爆発した。

 夕方4時ごろで、近くで海水浴を楽しんでいた子どもたちや、渡久地港から物資を満載した船が入港し、下船した乗客や出迎えに訪れた多くの人々が惨劇に巻き込まれた。

 港には遺体が散乱し、乗客や船員、出迎えの人々ら102人の尊い命が一瞬のうちに奪われ、73人の負傷者を出し、8家屋が全焼した。現場から約90メートル離れた家屋が破壊され、360メートル先まで船の破片が飛び散る大惨事となった。

 北谷町から参加した主和津ジミーさん(75)は「父(幸地良一さん)は当時32歳で部隊の通訳に従事していた。私は小学2年のころで、島の東側で海水浴をし、島中に響き渡る爆音と大きな煙が見え、港に向かうと犠牲になった父の姿があった」と当時の様子を話した。娘のメアリーさんも参列し、慰霊碑に手を合わせ、犠牲者を悼んだ。
(金城幸人通信員)