<脱植民地主義と「県外移設」論>下 知念ウシ


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〈誰の利益になるのか〉問い直し「意識化」を 植民者側の代行やめよう

普天間基地のフェンスにリボンやガムテープを貼り付け抗議するカマドゥー小の人たちと、はさみなどを使ってはがす米兵=2013年4月19日、宜野湾市の野嵩ゲート付近

【4】「基地撤去」と「県外移設」

 仲里さんは、「戦争の絶対否定」と日米両国に強いられた「死者」の位置から発想するしかないことに、「沖縄の戦後思想の核心点」があると言う。そして「沖縄が生き延びていくための原理」を、「安保条約の廃棄と日本の軍事力の完全解消、産業および経済の軍事的構造化を逆転すること」に求める(1月22日)。

 しかし、そのためには沖縄への日本人による基地押し付けという植民地主義を問題化する必要がある。「沖縄県民」(沖縄〈民族〉?)は日米安保体制を成立させている日本国家の中に1%の圧倒的少数派として包摂されている以上、多数派の日本人がその課題を担わないと物事は動かない。したがって、日本人に呼びかけなければならない。しかし、これまでのやり方では、逆に沖縄への在日米軍基地(専用施設面積)の4分の3の偏在隔離が進み、安保支持率は上昇した。

 このように、アメリカの世界戦略における沖縄基地支配の特徴は、日本人の沖縄への植民地主義を利用しているところにある。

 仲里さんは基地撤去と県外移設は矛盾するとして、琉球新報の社説子を「堕天使」とまで呼ぶ(6月2日)。しかし、両者は矛盾しない。矛盾するのは、「基地撤去」を「沖縄の地での基地・軍隊の解体消滅」や、「全日本全基地同時撤去」と捉える場合で、基地撤去も県外移設も沖縄から基地を追い出す点で同じだ。問題は、日米安保を成立させる日本本土の有権者の沖縄への基地押し付けの責任を問い、差別をなくすために基地を引き取るよう要求するかどうかである。

 これまで、アメリカが検討した在沖基地の米撤退や日本本土移転を日本政府がつぶしてきたのは周知の通りだ。これは、沖縄で基地撤去の寸前まで追いつめながらも、日本政府とそれを支える日本人の植民地主義が基地をまた沖縄に押し付け、戻してきた、と言える事態ではないか。このことを問題化し、「引き取れ」と言わない限り、今後もそれが繰り返されるのではないか。

 例えばカマドゥー小たちが続けてきた「ささやか」で地道な取り組みとは、多くの人と協力しながら、普天間基地のフェンスにハンカチをつないで包囲したり、英語のメッセージを米兵に届けたり、風船を揚げたり、金網にリボンを結び、魔除(よ)けのサンをさしたり、キャンドルを灯(とも)したり、直接米軍と対峙(たいじ)し「嫌が」られながら、同時に日本人に基地の引き取りを呼びかけることだった(上原美智子『うるまネシア』21号)。

【5】言説のパナプティコン

 仲里さんは「植民地主義的言説のパナプティコン」について語っている(6月2日)。これは脱植民地化を志向し実践していく上で重大な問題提起だ。

 付記された「用語説明」によると、「パナプティコン」とは、「受刑者はお互いは見えないが、看守からは受刑者全員が見える刑務所などの全展望監視システム」だそうだ。では、誰が「看守」で、誰が「受刑者」なのか。

 仲里さんは、ご自分の論考の名宛人は高橋哲哉さんで、伊佐さんと私は「代行」であり、「植民地主義は巧妙なパナプティコンを装置化する」と言う(しかし、仲里さんの、「沖縄戦後思想史」を看板とする論考が県外移設を考える沖縄人へも宛てられているのは明らかだ)。仲里さんの説だと、高橋さんが植民地主義の刑務所側の看守であり、伊佐さんと私と仲里さんが被植民者側の受刑者だということか。なぜか。高橋さんが日本人で私たちが沖縄人だからなのか。しかし、仲里さんは、日本人と沖縄人の境界は侵犯されていて、分けられないと言ってはいなかったか(1月21日)。

 もしも、看守の高橋さんを代行して、伊佐さんと私が仲里さんを批判しているとしたら、それによって植民地主義が守ろうとする利益は何か。それは、「一望監視」されながら、誰が何を語り、語らなかったかでわかるだろう。

 伊佐さんや私、高橋さんが主張するのは、県外移設/基地引き取り論の正当性だ。これが「パナプティコン」の守りたい利益だとすると、県外移設/基地引き取り論が植民地主義だということになる。不思議な話だ。

フロイト的失言?

 あるいはむしろ、「植民地主義的言説のパナプティコン」とは、仲里さんの「フロイト的失言」(思わず出た本音)だったとしたらどうなるか。すなわち、仲里さん自身が「代行」して県外移設/基地引き取り論を批判しているのだとしたら? その場合守られるのは、沖縄に基地を押し付け、引き取りたくない日本人、つまり、これまでのあり方を続けたい日本人(運動家や知識人も含まれる)の利益だろう。

 実際、仲里さんが一連の論考で語ったのは、県外移設/基地引き取り論の否定であり、差別を告発せず、基地の引き取りを求めず、これまでの運動のスローガンをひたすら繰り返すことの意義付けだ。他方、一度触れながらもそれ以上語らなかったのが「日本国民の責任可能性」である。こうした態度をとることは、植民者側の論者なら「露骨な植民地主義だ」との批判を恐れて控えるだろう。だからそれを代行する沖縄人がいることは、植民者側にとって好都合となる。

 日本の保守派だけでなくリベラル言論界にも、県外移設論への抑圧があると高橋さんは証言する(『うるまネシア』21号)。仲里さんの県外移設/基地引き取り論否定の構えとその状況は合致している。

 言説の脱植民地化には、自らの議論が誰のどんな期待に応えることになっているのかを問い直し、ジェンダー化された植民地主義を「意識化」することが不可欠だろう。

(ちにん・うしぃ むぬかちゃー=ライター)

(2016年9月16日 琉球新報掲載)

 昨年8月に「『県外移設』という問い」(5回)を掲載して以後、本欄で県外移設論を取り上げてきました。8月の連載を受け11月、高橋哲哉氏が応答し、これに今年1月、仲里効氏が論考を寄せて、論争となりました。その後、議論のステージ形成を目指して、論者を広げながら展開しています。