社会
在沖米軍基地の県外移設を巡る議論

<沖縄戦後思想史から問う「県外移設」論>上 仲里効

北緯27度線上で行われた1965年4月28日の沖縄返還要求海上大会

死者の声を聴くこと/二重の植民地主義を内破

 昨年本紙で「県外移設という問い」(8月20日~9月8日)が5回にわたって連載された。その後連載へ応える高橋哲哉氏の「今こそ『県外移設』を」が上・下(11月2日、3日)で載ったが、高橋氏のそれは連載最終回のインタビュー「識者に聞く」で、一定の留保ないし疑義を呈した新崎盛暉氏と私への応答に主に紙面を割いていた。

 そのインタビュー記事は、1回で4名のコメントを拾うというきわめて限定的な内容だったため、意を尽くしたものとはいえなかったことや、高橋氏の応答によってもなお疑義は解消されなかったことから、あらためて県外移設とそれを支持する論陣を張る高橋氏の見解を沖縄の戦後思想史の論脈から問い返していく必要性に迫られた。

奇妙な既視感

 「日本人よ、いまこそ基地を引き取れ」という呼びかけにイエスと応え、「引き取る」運動に対して「新たな運動ののろし」(本紙、記者リポート)という形容がなされる。たしかにいままで見られなかった取り組みであり、その意味で「新しい」と形容しても間違いにはならない。しかし、その理路を注意深く見ていくと、奇妙な既視感を抱かされる。

 それというのは、基地の移設によって負担平等を求めていくロジックに、沖縄の戦後史をひと色に染めた「復帰」運動が日本国家の制度的枠組みに入ることによって差別の解消と平等を求めたベクトルを見てしまうからである。そこでの宛先は、「民族」や「国民」であったため、日本国家の沖縄再併合の狡知(こうち)に無惨(むざん)なまでに刈り取られていった。

 「復帰」運動が日本(人)との一体化を目指したのに対し、基地移設論は「無意識の植民地主義」を論拠にした日本(人)と沖縄(人)を区別している違いがあるにしても、である。

 話を分かりやすくザックリと言えば、8割の日本人の安保支持を前提にした負担平等は、安保をもって安保体制をなくそうとする二段階改良主義にして体制内差別解消であり、それを動かすのが「日本人」と「沖縄人」の対項である。安保をもって安保体制をなくすことはできるだろうか。否である。天皇をもって天皇制を、原発をもって原発体制を、戦争をもって戦争体制をなくせないように。

一方的「犠牲」か

 高橋氏は米軍基地の沖縄集中は「一方的に押し付けられた『犠牲』」であり「日本(人)による一方的な差別」だと言う。そのことは「沖縄が『基地を引き取れ』となかなか言えないのは、沖縄の優しさや弱さではなく歴史体験があるから」で、「沖縄戦の死者の声を聞き取るなら、痛みを他者に押し付けることはできない」とした私の発言に、「沖縄の『痛み』に沖縄は責任がない。一方的に押し付けられた『犠牲』だ」という断言を導く。

 はたしてそう断言できるだろうか。私のコメントは、沖縄から出てきた基地の「引き取り」運動に対し、高橋氏がその著書のなかで「従来の運動が打ち破れなかった枠、自分たちに基地を押しつけているのは『ヤマトの人達』であると明示するのを避けてきた『沖縄の優しさと弱さ』の枠を打ち破るためのものであった」と評価していたことへの沖縄戦の死者の声を聴き取ることからする異議提起のつもりであった。

 「優しさと弱さ」の枠とは何か、そしてそれは打ち破るべきものなのだろうか。基地を引き取れという手前で踏み止(とど)まること、沖縄戦の死者たちの声を聴くこととは“弱さ”を“弱さ”のままに生存の思想を紡ぎ、そのことによって戦争に繋(つな)がるいっさいの“強さ”を拒否していくことではなかったか。

同化「日本人」

 被害と加害が捻(ねじ)り合った「集団自決」や「復帰運動」が再生させた「同化主義」と「国民主義」を批判的に踏み越えた沖縄の戦後思想の核心は、「痛み」や「犠牲」の内にある二重性に分け入り、そのことによって、戦争責任と戦後責任を課題化していったはずだ。

 基地の沖縄集中が「日本(人)による一方的な差別」だとしても、その差別主体を一方的に焦がれ内面化した戦後沖縄の自己史をシランフーナーするわけにはいかないだろう。そのことはかつて沖縄人が東南アジアや南洋群島において「オートロハポン」(もう一つの日本人)と呼ばれて抑圧移譲の鎖に繋がれ、他の植民地に先がけた同化「日本人」としてアジアの人々に「痛み」や「犠牲」を強いていった過去を忘却するわけにはいかないように。

 高橋氏が「決定的なのは」と前置きして、「植民地主義と差別の主体である『日本人』の責任をどう考えるか」と問う、その「日本人」も沖縄においてはすでに二重である。

 沖縄(人)のなかに日本(人)が折り重なり、日本(人)のなかに沖縄(人)が流れ込んでいるゆえに、「日本人」の責任を問うことは、裁きの門前に〈私のなかのもう一人の私〉の出頭を促す。この〈単数にして複数〉の主体の在りようは「日本人」と「沖縄人」を同時に問い、それぞれが純粋化と全体化へと向かう動きに内側から歯止めをかける。

 こうした二重の植民地主義を問い、内破することにおいて沖縄の戦後思想はポストコロニアルな地平に踏み込むことができた。もっと言えば、「沖縄人」とは当たり前の前提として即時的に“ある”のではなく、不断の脱植民地化によって“なる”という動詞的存在なのである。

(2016年1月20日 琉球新報掲載)



仲里 効 氏
 なかざと・いさお 1947年南大東島生まれ。映像批評家。「越境広場」編集委員。主な著書に「悲しき亜言語帯」(未來社)、「フォトネシア」(同)、「眼は巡歴する」(同)など。