<琉球・沖縄史から見た「県外移設」論>中 伊佐眞一


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1928年ごろの太田朝敷(伊佐眞一他編『太田朝敷選集』中巻、第一書房、1995年)と主著『沖縄県政五十年』(国民教育社、1932年)

基地集中は国家意思/一方的に圧迫、屈従強いる

 沖縄への米軍基地の集中化は、日本の敗戦後に始まる対米従属と、ヤマトの生存のためには沖縄をどうにでも利用するという、日本人の総意としての国家意思とが組み合わさった結果である。善意のヤマト人がいようがいまいが、大勢はこのふたつが強固な万力(まんりき)となって両側から圧迫しているのが現在までの沖縄である。日米ともに、平時には生かさず殺さずのアメとムチを巧みに使っているが、では危機に瀕(ひん)した一旦緩急の場合にはどうなるのか。それは明治の分島問題、戦時中の捨て石、敗戦直後の昭和天皇にみられる冷徹な行動、そして現在の安倍政権に至るまでの政治を見ればよい。

固定化を黙認

 この根本事実をおさえることが何よりも重要であって、皇民化した歴史をもつ沖縄にも責任があるという仲里氏の論理展開には到底承服できない。しかもそれと関連して、高橋哲哉氏がその著書で、いかに米軍専用施設が沖縄に押し込められているかを、数字でもって他の46都道府県と並べて見せたことが剣呑(けんのん)だという。沖縄の米軍基地のありように無知・無関心の人間にこれほど一目瞭然の効果をもって示すものはないと思うのだが、仲里氏はそこで「合理的」な移設という場合の「合理的」とは何かと反問し、「負担平等」の「平等」とは何か、「応分の負担」の「応分」とはいったい何かと詰問する。

 この箇所を読んだとき、私は一瞬、米軍基地のヤマト移転を拒否するヤマト人の発言かと思ったほどである。安保条約への賛成・反対という政治信条の左右のいかんにかかわらず、沖縄の米軍基地の理不尽さを口にしながらも、決してわが身には引き受けようとはせず、実質的に沖縄への固定化を黙認し維持してきた者たちが、必ずや言うにちがいない論法だからである。クシャミまで

 振り返ってみれば、この20年のあいだに村山政権や鳩山政権がどうだったかを私たちは知っている。これはつまり、日本政府や官僚機構を云々(うんぬん)するだけでは問題解決にならないことを物語っている。ヤマトの確固とした視座からすれば、私はもっと左翼的な人民政府が出来たとしても沖縄への対応は大して変化しないだろうと疑っている。そのくらい沖縄にとってヤマトの沖縄認識はタダゴトではないのであって、先日の県民意識調査では、沖縄の基地問題が「本土の人」に理解されているかとの問いに対して、83%の人が理解されていないと回答していた。沖縄人のヤマトをみる眼の根本的な学習とその変化をさらに望むものだが、ここで私はそれに関連したあるひとつの話を思い出す。

 施政権返還前に琉球政府周辺で囁(ささや)かれたことである。-たしかにアメリカは非道極まる統治をやりはしたが、しかし今後また「沖縄県」となれば、アメリカ以上に容易でないヤマトを直接相手にすることを重々肝に銘じておくようにというのである。-そうした忠告をした類(たぐい)の沖縄人がその後それほど増えなかったことが、今日の事態を招いたといえなくもないだろう。

 近代沖縄のジャーナリスト・太田朝敷は、琉球処分から約20年後の明治33年、沖縄人は日本社会のなかで生きるためには、クシャミまで彼らの真似(まね)をしろとまで言った。彼は日本国家を許容し表面上は日本人と名乗りはしたが、そうした発言の背景には地理的にヤマトから隔絶し、ひとつの歴史的纏(まと)まりで存在する島嶼(とうしょ)文化圏としての沖縄人意識があった。

 毛細血管のように奥深い地方の産土(うぶすな)や神社にまで「菊の御紋」が染み込んだヤマトと、このたった1世紀余の教育でヤマト風に着色させられた沖縄とは同日の談ではない。自分たちとは異質な集団であることを知っていたがゆえに、太田は日本的な表皮はどうでもよいと考えたのだが、それだけに息苦しい日本国内で、沖縄の土地と社会における沖縄人の「社会的勢力」(いまでいう自己決定権)を、人一倍求めてやまなかった。彼はあまりに楽観的すぎたとは思うが、彼が敬愛してやまなかった蔡温がいま下界に降りてきて、沖縄人が二重性で懊悩(おうのう)しているなどと言っているのをみると、さぞ世も末だと嘆くにちがいない。

「二項対立」

 こう書いてくるともうわかると思うが、沖縄(人)にとっては日本(人)との関係性こそが試金石なのである。アジアを語るのもいい、国境を越えて友好をすすめるのも大いに結構だし、ヤマトゥンチューと個々人のレベルで結びつきをもっと深めていくのも当たり前だ。しかし本能寺はどこなのか。他者としてのヤマトとのあいだに流れる滔々(とうとう)たる「二項対立」(本当は一方的な圧迫と屈従関係)の歴史を真正面から見すえて、その弱さを捨てることでしか沖縄に曙光(しょこう)はないのだと私は考える。

 ヤマトのすさまじい政策がこれまでの琉球・沖縄史を貫通している以上、それに対抗する発言と実践力が必要なのは自明ではないか。私たちは地政学的な東アジアの安全保障が達成されるのを待つだけの人間ではないのであり、それだけに県外移設が「日米の軍事再編に横領」される心配をするよりも、県外移設の正当な要求も口にできないままに、またもやヤマトと地獄の道連れにされる方がもっと深刻ではないか。

(伊佐眞一、沖縄近現代史家)

(2016年4月27日 琉球新報掲載)