社会
在沖米軍基地の県外移設を巡る議論

<「県外移設」の思想とは・仲里効氏の批判への応答>中 知念ウシ

「本土」こそ当事者/誰が「押し付ける」権力か

■3、他者と境界

 第3に、仲里さんは「沖縄が『基地を引き取れ』となかなか言えないのは、沖縄の優しさや弱さではなく歴史体験があるからで、沖縄の死者たちの声を聞き取るなら、痛みを他者に押し付けることはできない」という。

 不思議なのは、仲里さんは、県外移設に反対するときはこのように「沖縄」と「他者」とを「明快に区別」するが、高橋さんが「基地引き取り」の根拠として「植民地主義と差別の主体である『日本人』の責任」をあげるときは、それに反論するために違うことを言うことだ。例えば、「沖縄(人)のなかに日本(人)が折り重なり、日本(人)のなかに沖縄(人)が流れ込んでいる」「『日本人』と『沖縄人』の境界は沖縄の近現代史の中で内と外から侵犯されている」と。どちらなのだろう。

■4、押し付ける

 第4に、そもそも「痛みを他者に押し付けることはできない」とは妥当なのか。

 まず、「痛み」とは何か。仲里さんは定義していないが、文脈からは「日米安保条約を根拠とする在日米軍基地によって沖縄が被っている負担とそれに伴う被害」と解釈できるだろう。

 では日本(本土)は本当に「他者」なのか。日本国は国民主権である以上、政府の政策を成立させている、やめさせていないのは国民、有権者である。そして、日本国人口のうち沖縄県は1%である。全国世論調査では日米同盟支持(強化・維持すべき)が86%で、解消が2%だ(本紙昨年7月22日)。すなわち、在日米軍基地にとって「日本(本土)」とは、それを成立させている当事者であり、「他者」ではない。本来、その政治選択の負担を担い、自ら解決しなければならない立場なのである。

 しかし、2012年12月25日、森本敏防衛相(当時)が「軍事的には沖縄でなくても良いが、政治的に考えると、沖縄がつまり最適の地域である」と記者会見で述べた(防衛省・自衛隊HP)。「政治的に最適の地域」とは、国民の多くが反対しないから基地を置きやすいところという意味だろう。つまり、これまで沖縄で起こった基地負担と被害という「痛み」とは、本来負担する責任のある日本(本土)から「日々沖縄に移設」」(玉城福子)されたものだと言えよう。しかも起きた被害はもう取り返しがつかない。

引き取る「痛み」

 しかし、今後基地を引き取ることによる「痛み」とは、日本(本土)にとっては「他者に強いられた肩代わり」ではなく、さらに沖縄とは比較にならない広大な土地で自ら解決していくものになる。例えば、県道104号線越え実弾砲撃演習は1997年に県外5演習場に移転されることになった。沖縄ではほぼ年中行われる実弾演習は移転先の各演習場では年間10日間ずつだ。また、沖縄ではなかった騒音調査と防音工事がされ、さらにそれ以外の演習場でも補助率100%でなされている(本紙今年2月11日)。また演習期間中(米海兵隊の滞在中)、小・中学生の登下校に行政がバスやタクシーを手配したり(「沖縄タイムス」99年2月10日)、外出中の米兵がトラブルを起こさないように防衛局職員が同行する協定もある(「沖縄タイムス」2001年7月7日)。これらは沖縄に置いておくより被害軽減や監視強化が進んだ例とは言えないか。

 次に、沖縄人には在沖基地を日本(本土)へ「押し付ける権力」があるのか。ない。もしあればとっくに基地は移転しているだろう。例えば2012年、在沖米海兵隊1500人の山口県岩国基地への移転案が米側から出ると、あっという間に(県民大会など開く間もなく)「地元の反対」を理由に日本政府が反対し消えた。14年の佐賀県佐賀空港への在沖オスプレイの訓練移転案も、やはり県民大会なしで、日本政府は「地元の反対」を理由の一つとして撤回した。沖縄に「押し付ける権力」があれば、結果は違っただろう。その力を持っているのは日本(本土)、日本人の方なのだ。

 したがって、「痛みを他者に押し付けることはできない」を「押し付けるべきではない」という意味として沖縄人に向かって言うのは妥当ではない。むしろ日本人、日本(本土)の有権者に向かって言うべきなのである。

■5、弱さの枠

 第5に、仲里さんは「『優しさと弱さ』の枠とは何か、そしてそれは打ち破るべきものだろうか」と問題設定するが、その答えを直接書くことはない。既述の通り、この議論の対象となっている「優しさと弱さの枠」とは、そもそもカマドゥー小(ぐゎー)と名護の女性が、「名護に移設させない、普天間にも置かせない、ならば」と日本社会に宛てて、1998年東京で「普天間基地の大セール」「基地コ~ミソ~レ~」と呼びかけた行動に関する言葉である。高橋さんはそれを引用して論じたのだ。カマドゥー小は次のように言っていた。「宜野湾と名護両方が東京で『基地』から発生する被害を訴え糾弾するだけではなく、被害を受けつつも基地経済やその維持のための制度を甘受している沖縄側の優しさと弱さを打ち破るために『売る』ことを呼びかけた」(高橋、前掲書38ページ)。

 つまり、ここで「沖縄側の優しさと弱さ」とは「被害を受けつつも基地経済やその維持のための制度を甘受している」ことだ。それには、基地を押し付けてくるのは政府ばかりではなく、「ヤマトの人達」であることを明示せず対峙(たいじ)しないことが含まれていた。それを「打ち破るため」に、東京で「基地売ります」と呼びかけたのだから。

 仲里さんはその「被害を受けつつも基地経済やその維持のための制度を甘受している」「“弱さ”を“弱さ”のままに生存の思想を紡ぎ、そのことによって戦争に繋(つな)がるいっさいの“強さ”を拒否していくこと」を主張しているのか。それとも当初引用したものから意味を変えたのか。そうであるなら明示すべきだ。これでは「意味のすり替え」になってしまう。(むぬかちゃー)