那覇市首里大中町で生まれ育った摩文仁朝彦さん(88)は、県立第一中学校(一中)3年が終わった頃に沖縄戦に巻き込まれ、一中鉄血勤皇隊として戦場に送り込まれました。県立首里高校2年の新垣日菜さん(16)、譜久村有珠さん(17)、同3年の垣花恵茉さん(18)が体験を聞きました。
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〈摩文仁さんは、1942年に一中に入学しました。3年生だった44年、那覇の町が10・10空襲で壊滅し、県庁の庁舎も損壊しました。沖縄戦は目の前に迫っていました〉
45年になってから、どういうわけで選んだのか分かりませんが、僕は県庁連絡員という役目に当たりました。3年の3学期でしたが、ほとんど授業はありませんでした。開南から与儀にかけて、ぽつんぽつんと10・10空襲で焼け残った瓦ぶきの家があったので、県庁の各課がその家々に分散して入ったんです。僕は人事課でした。各課の主任さんに「~までご足労願います」などと伝えたりしました。それは「~に来てください」という意味です。
〈3月23日、たくさんの米軍艦載機による大規模な空襲が始まりました。一中では27日に卒業式が開かれ、一中鉄血勤皇隊が編成されました〉
だんだん空襲が激しくなってきたので、僕たちは県庁の職員と共に、桃原町にあった県立首里高等女学校(首里高女)の校庭の壕に移りました。その壕で、教官の命令だということで5年生の先輩から「学校に帰れ」と言われました。
※続きは5月13日付紙面をご覧ください。