歴史開いた沖縄の星 「世界女王の軌跡-宮里藍引退」 ゴルフ界の“救世主”に


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プロ初優勝を沖縄で飾り、女子ゴルフ界の“顔”として歩み始めた宮里藍=2004年3月

 2003年9月、日本女子ゴルフの“顔”が誕生した。宮城県で開催されたミヤギテレビ杯ダンロップ女子。東北高校に通う18歳の宮里藍が、並み居るプロを抑えて優勝を勝ち取った。大きな瞳と屈託のない笑顔の高校生が、アマチュアとして30年ぶりにツアー優勝を果たす偉業だった。翌日のスポーツ紙の1面に並んだ「藍スマイル」。注目度は一気に増した。

 人気はすぐに数字でも示された。翌週の日本女子オープン選手権は当時、4日間の大会史上最多となる2万1837人が押し寄せた。関係者によると、女子大会のチケット収入は前売りと当日券合わせて700万円程度が普通だった。それが同トーナメントでは当日券だけで1700万円を売り上げた。テレビの視聴率も前の年に比べ、大幅にアップした。

 ゴルフファンばかりでなく、競技に疎い人にもゴルフに目を向けさせた点も、宮里の功績だ。初優勝後のプロ宣言は、テレビで会見が生中継され、各局の番組に出演した。当時、テレビ関係者からは「それまである程度固定されていたゴルフの視聴者層を変化させた」と驚きが漏れた。

 人気に後押しされた宮里は、ここからさらに「歴史」を塗り替える。04年3月の国内開幕戦のダイキン・オーキッド・レディストーナメント(玉城村=当時、琉球GC)。1週間前に高校を卒業して臨み、頂点に立った。

 地元でのプロ初戦Vに加え、女子プロとしてのツアー最年少優勝(18歳8カ月)、日本人選手としてプロ登録から146日目(4試合)の最速優勝-という記録づくしの栄冠。18番グリーン、満員の観客席から拍手と歓声を一身に浴びた若きプロゴルファーは、右手を高々と突き上げ、笑顔でこたえた。

 続く05年10月、20歳になった宮里は国内最高峰の日本女子オープン選手権を制した。4日間の観客は4万8677人。この数字は今も女子ツアー最多動員記録となっている。

 メディアでの露出拡大やフィーバーだけに終わっていなかったことは、その後を追った若手女子選手たちの目覚ましい活躍が示している。沖縄だけを見ても、諸見里しのぶや宮里美香、比嘉真美子らが次々とプロの道へ進み、二つ年上の先輩の上原彩子も宮里を追い米ツアーへ参戦した。

 引退表明を受けこれらプロは「同じ空間でプレーできたことがすごく幸せだった」「ゴルフ界は偉大な存在を失う」「絶対に届かない神様みたいな人」とコメントした。宮里は沖縄から全国、世界へ羽ばたくスポーツ選手の象徴だった。

 全国のプロも宮里の背中を追った。同じ東北高校で2学年下だった有村智恵は「昨年の終わりごろに(意思)を直接聞いた。疲れたのだろうと思った」と推測。「ゴルフを離れても神様みたいな、お手本的な存在は、ずっと変わらなかった」と話した。
 06年の米ツアー参戦が決まった時、当時の樋口久子日本女子プロゴルフ協会長は「日本の宝」と評し、米国へ送り出した。数々の記録を塗り替え、人気が低迷していた女子ゴルフの復権、現在に続く隆盛の礎を築いた宮里は、ゴルフ界の救世主だった。

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 元世界ランキング1位の宮里藍(東村出身)が今季限りでの引退を決断した。年齢はまだ31歳、現役まっただ中の第一人者の突然の表明はゴルフ界に衝撃を与えた。第一線を退く理由など本人から説明がある29日の会見に注目が集まる。日米ツアー24勝という実績のある1人のプロゴルファーということだけでなく、女子ゴルフ界の人気を一気に押し上げ、後に続く若手らのお手本としてトップを走り続けた。日本のゴルフ界を一変させた「藍ちゃん」の姿を追う。