強い心、頂点つかむ 「世界女王の軌跡-宮里藍引退」 高い適応力、米で発揮


この記事を書いた人 Avatar photo 瀬底 正志郎
1998年に全琉アマゴルフで優勝した宮里藍

 155センチ、52キロ。スポーツ選手でなくても小柄な宮里藍。170センチ台の大柄な選手が当たり前の米ツアーでは、より小さく見える。そんな中、世界と渡り合えたのはパットの強さだ。グリーン上でのためらいのないプレーは、他のプロも舌を巻いた。

 米ツアーで年間5勝を記録し、世界ランキング1位となった2010年は、パーオン時の平均パット数は1・73。全選手の中でトップの数字だった。難しいラインでも早めに判断し、ちゅうちょなく打つ。昨年のリオデジャネイロオリンピックで金メダルに輝き、メジャー7勝を誇る朴仁妃(韓国)も「リズムが好き」と参考にした。

 宮里がプロ宣言した際、父の優さんは娘がゴルフに熱中するとは思わなかったと語っている。「女の子ということもあり、将来は別にゴルフでなくても、自分の好きな職業に就いてくれたらいいと思っていた」。沖縄の女子プロ第1号の島袋美幸選手が日本女子プロゴルフ協会に入会(1985年6月)し、そのわずか3カ月後に宮里は生まれた。ゴルフが女性の憧れのスポーツの一つというのには程遠い時代だった。 

 宮里が初めて「勝ち」を意識したのは小6で出場した県ジュニア選手権(1997年)だ。結果は優勝。翌年4月には、全琉アマチュア選手権でレディースの部を制した。大人たちを相手に勝負強さを見せる少女の名は、その後県内外に広まっていった。

 20歳で世界に羽ばたいたが、実は九州や全国大会よりも世界デビューが早かった。中1で臨んだ世界ジュニア選手権(13-14歳の部)だ。優さんと共に英語もできない2人で米国に乗り込んだ。結果は5位入賞。「世界で戦う喜びを知った。そういう選手になりたい」。初の国際舞台を、宮里はこう振り返った。それから7年、夢が実現する。

 米ツアー参戦後、オフの課題を「英語力」と毎年のように口にしていた。当初、優勝できずプレーで試行錯誤を続ける中、ゴルフ以外の環境に溶け込もうと、他の選手に積極的に英語で話し掛け友人をつくった。1986年に17歳10カ月で米ツアーに初挑戦した服部道子はかつて「英語に熱心で外国選手と親しく接している。性格と姿勢は実力向上のための大きな財産となる」と宮里の適応能力の高さを評価している。

 2009年の初優勝以降、米ツアーで勝利を重ねたが、13年以降は勝てていない。同年秋には不運にも見舞われた。日本ツアーに出場するための移動で、何らかの圧力がかかり、パターのシャフトが曲がった。すぐに修理したが、「少し開いているように見えて、アドレスに違和感があった」という。最大の武器で感覚のずれが生じた。

 異なるモデルを使い、ラインの読みもキャディーに任せるなど試行錯誤を重ねたが、翌年の平均パット数は1・88となり、138位に急落。昨年はわずかに改善したが、90位に低迷したままで全盛期のパッティングは鳴りを潜めた。

 昨年、親しいプロ仲間らには「引退」を口にしていた。ジュニア時代から競い、支え合ってきた2歳年上の上原彩子は昨年、本人から引退の意向を聞き「決めるのはとても勇気がいることだ」と感じたという。兄優作も今年1月、本人から「今年で引退する」と言われ、驚いた。優作は引退が明らかになった今月27日、「彼女のような選手が今後出てくるのかは分からないくらいゴルフ界を変えた。ジュニアから上がってきた子たちは宮里藍を見て育った」と妹をたたえた。

 29日午後1時、都内のホテルで引退の記者会見が開かれる。宮里自身の言葉で何を語るのか。日本中が敬意の気持ちを込め見守る。