Cocco、20年を振り返る(下) ファンやスタッフ 自分も愛せていた


社会
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 今年でデビュー20周年を迎えた県出身アーティストのCocco。2001年に活動を中止した後、沖縄で「歌が心に届いたら、ごみを一つでも拾ってほしい」と呼び掛けた「ゴミゼロ大作戦」や、バンド「SINGER SONGER(シンガーソンガー)」での活動を経て、06年に活動を再開した。20年間を振り返るインタビューの後半は活動再開への道のりや沖縄への思いなどを聞いた。

デビュー20周年を迎えたCocco。後ろの絵は開邦高校の後輩たちが2012年に琉球新報の沖縄日本復帰40周年企画で描いた=那覇市の琉球新報社

―活動を中止して沖縄に戻った後、06年に活動を再開できたのはなぜか。

 「まずスタッフがしつこかった。ものすごい愛情でもって『生まれてくる歌は勝手にCoccoが止めちゃいけない。Coccoだけの歌じゃないんだ。ちゃんと世に放とう。それが音楽に関わる人間のやるべきことだから』って説得された」

―活動再開には「ゴミゼロ大作戦」や「SINGER SONGER」での経験も大きかったか。

 「『ゴミゼロ』では大人ではなく子どもと演奏したこともリハビリになった。商業的ではなくみんながボランティアだった。音楽をお金にしたくないっていうのもやめた理由の一つだったから、お金じゃなくて気持ちで動く、歌うというお金を抜いた歌のリハビリになった。『SINGER SONGER』は、(ソロの時は)いつも1人で寂しかったけど、テレビに出るときも回りにメンバーがいたら全然楽しさが違う。責任の分担ができる。人前に出るリハビリになって、1人でもいけるかなって思って(ソロの)アルバムを出した」

―活動再開後は音楽性が少し変わった気がする。

 「自分ではよく分からないし、劇的、根本的には変われない。その土地で何を食べるかによっても出るものは変わる。でも、再開してからは『沖縄っぽい』と言われた。(活動再開して最初に発表した)『音速パンチ』もそうだし。1回立ち止まって、沖縄で海を見るというのは、アイデンティティーを見直すきっかけになったのかな。デビューした時、沖縄出身だからではなく、Coccoというものだけで判断してほしいと思っていた。沖縄の何かを取り入れようとかは一切考えてなかった。でも再開してからはそれが全然怖くなくなった。自分の血は隠せないし、取り入れてもいんちきではないんだって思った。沖縄が染みついているから正しい武器なんだって。20周年(のアーティスト写真)でかんぷー(うちなーからじ)結ってるしね。ベストアルバムの写真(子どもの頃にうちなーからじを結っている写真)は十三祝い。おばあ(役者の真喜志八重子)にやってもらった。私が沖縄出身っていうことを知らない人も多いから、ここで沖縄の女だって意思表示しようかなって思った」

―アルバム「エメラルド」のように、今後もしまくとぅばを使ってみたいか。

 「分からないけど、ライブで(『エメラルド』に入ってる)『絹ずれ~島言葉~』を歌ったら自分でも感動する。エンジンがかかる。Jポップでこんなにしまくとぅばを生かした曲があるかなって思う。もっと歌わないといけない。それはパパに歌詞をしまくとぅばに訳してもらった」

 「3月に川満しぇんしぇー(川満聡)の『OKINAWAお笑いミーティング』という舞台に出たんだけど、舞台袖でめっちゃ笑った。沖縄のお笑いが分かるくらいのヒアリングはできてよかった。でも沖縄芝居は難しい。おばあの85歳のお祝いで、おとうたちが(Coccoの祖父)真喜志康忠をまねて茶番劇をしたんだけど、何を言ってるのか分からなかった。あと、民謡を歌えるようになりたい。内地から来た人が歌手になって立派に歌えているのがうらやましい。誕生日に同級生に三線を買ってもらった。ちんだみ(調弦)しようと思ったら(部品が)折れて、修理したらまたその日に壊れた。縁がなさそう。でも結婚式で1曲歌えるくらいにはなりたい」

―20周年の武道館ライブへの意気込みを。

 「20年続いて『こんなに愛されてたんだ』って感謝したけど、相思相愛じゃないと20年も続かない。スタッフやファン、支えてくれる人たちを『自分も愛せていたんだ』っていううれしい発見があった。それを同じ場所で共有できたら、直接『20年ありがとう』って言い合える場になればいいなと思う」

(聞き手 伊佐尚記)

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 武道館ライブは7月12、14の両日に開催。12日は完売。詳細はCoccoの公式サイト