おじいのこと知りたい 祖父が被爆した下地智菜さん 長崎平和式典参加へ


この記事を書いた人 大森 茂夫
「原爆のことを知りたい」と話す被爆3世の下地智菜さん。9日の平和祈念式典に初めて参加する=1日、南風原町津嘉山

 大好きだったおじいのこと、原爆のこと、もっと知りたい―。9日に長崎市の平和公園で開かれる平和祈念式典に、沖縄キリスト教学院大学1年の下地智菜さん(18)=南風原町=が初めて参加する。下地さんは、祖父が72年前に長崎で被爆した被爆3世。祖父は昨年11月、被爆体験をほとんど語らないまま87歳で他界した。下地さんは「語れなかった」祖父に思いを寄せ、長崎に向かう。

 1945年8月9日午前11時2分。米軍は広島市に続いて長崎市に原爆を投下した。爆風や熱線が街を襲い、当時の人口の3割に当たる約7万4千人が同年末までに亡くなった。

 下地さんの祖父、勇吉さんはその長崎にいた。当時16歳。古里の宮古島を離れ、長崎県内の造船所で働いていた。本人の被爆者健康手帳によると、勇吉さんは8月11日、爆心地に近い長崎市浦上町を訪れて被爆した。

 下地さんは小学校の平和学習で、祖父に「戦争体験を教えて」と頼んだことがある。「きのこ雲を見た」。勇吉さんはそれだけ言って、言葉をつぐんだ。「目をうるうるさせて、すごく悲しい顔をした。思い出したくないんだな、と思った」と下地さんは振り返る。

 下地さんは、中学校の修学旅行で長崎を訪ねたことがある。原爆資料館も見学した。豊富な展示で原爆の実相を伝えている。しかしなぜか、下地さんは人ごとのように感じていたという。

 原爆に対する意識が変わったのは今春。昨年11月に祖父ががんで亡くなり、県原爆被爆者協議会から「長崎の平和祈念式典に参加しませんか?」と声が掛かった。式典では、勇吉さんの名前が原爆死没者名簿に追加される。下地さんは「原爆と祖父が初めて結び付いた」と話す。

 母の智枝さん(47)は「沖縄の基地問題も、実際に見ないと分からないことがある。(勇吉さんは)ニュースを見ながら『また戦争が来る』と言っていた。被爆地を自分の目で見て、戦争と平和について考えてほしい」と娘の成長に期待する。

 18年間、祖父の愛情を受けて育ったという下地さん。「私と同じ年の頃、おじいは長崎で戦争を経験していた。本人からは聞けなかったけど、語り部に原爆のことを聞いて、大学の友達に伝えたい。沖縄の人も、長崎、広島の原爆を学ばないと」と話している。(真崎裕史)