8月12日に放送されたNHKスペシャル・ドラマ「返還交渉人」は記憶に残る作品であった。沖縄の日本復帰交渉人の一人に千葉一夫さんがかかわったことは余り知られていないが、それを浮き彫りにしたのも同ドラマの功績である。
1960年代後半から沖縄返還の話が出て、70年代初期の交渉で実現の兆しが出始めた。復帰交渉で主に知られているのが、日本政府側では当時外相だった愛知揆一さんと琉球政府主席の屋良朝苗さんであった。しかし、ドラマでは会談には少し触れただけで、当時、外務省北米第一課長だった千葉一夫さんの人生観が主体となって描かれている。
当時、一夫さんは40歳前半。「鬼の千葉」と称されるほどタフネゴシエーター(手ごわい交渉者)であった。2人の子供の父親でもあり、優しく理解力のある妻恵子さんに励まされながら信念を貫き通したとされる。夫婦共に米留学をし、英語が堪能。家庭ではパパ、ママと呼び合うなど、当時としてはアメリカナイズされた家庭であったことがドラマからは分かる。
「鬼の千葉」という言葉で「鬼の大松」と呼ばれた東京五輪の女子バレーボール監督、故大松博文さんのことが頭に浮かんだ。東京五輪では女子バレーボールは金メダルを獲得している。「東洋の魔女」とも呼ばれた日本の女子バレーボールチームに回転レシーブをスパルタ教育で教え込んだ。太平洋戦争のインパール作戦生還者の一人でもあり、日本の一世を風靡(ふうび)した人であった。
大松監督と千葉課長の関連性は知らないが、2人はほとんど同世代である。米側との沖縄復帰交渉に当たり、一夫さんは沖縄のこと、日本のことを常に考えていたという。
交渉のためには、一寸の妥協も許さなかったが故に「鬼の千葉」と称されたとされる。米国要人や日本政府に対し、簡単な譲歩は決してしない、交渉が成立するまで料亭に招待されても決して酒は口にしなかったという。
米首都ワシントンに足を運んだ一夫さんは米政府要人に「また君か」と顔をしかめられたり、沖縄に何度も足を運んだりし、沖縄の米軍基地の「本土並み」を要請してきた。ドラマで屋良主席が「政府要人がまた沖縄に足を運ぶと言って、それを実証した人はいなかった」と述懐した場面が印象に残る。
72年5月15日、沖縄が日本に返還された。一夫さんが交渉した大部分は実らなかった。一夫さんの息子で在ロサンゼルス総領事の千葉明さんは、父親のことを余り多くは語らない。
しかし、私は息子にとって父親は誇るべき存在であり、日本国民、特に沖縄県民にとって一夫さんの営為は今後、明記すべき事柄として語り継がれるに違いないと思った。
(当銘貞夫、ロサンゼルス通信員)