生還の父、続いた苦難 10・10空襲きょう73年 普天間直精さん(那覇市) 子や孫へ伝える戦


この記事を書いた人 大森 茂夫

 1944年10月10日、那覇市を中心に離島を含む県内全域が米軍機による大規模な爆撃を受けた「10・10空襲」から73年。当時の那覇港のすぐ近くに住んでいた那覇市住吉町出身の普天間直精(ちょくせい)さん(85)=市若狭=は、母親や幼いきょうだいらと火の海の中を逃げ、助かった。しかし那覇港にいた父親・直保(なおやす)さんは大けがを負い、空襲から22年後、けがが原因とみられる病気で亡くなった。長男の直精さんは、12歳から働き一家を支えてきた。「あの時死んでいれば…」と死ぬまで後ろめたさを口にしていた直保さん。自身の体験を「うれーぬくさねーならん(これを残さないといけない)」という思いを強めている。

孫の玲奈さんからICレコーダーの使い方を教わる普天間直精さん=8日、那覇市若狭の自宅

 10・10空襲の日、「ドーッ」という音とともに海から連隊を組み、米軍機が飛んできた。自宅近くの石垣の上にいた直精さんは、那覇港に停泊していた日本軍の船や漁船がどんどん爆撃されるのを目の当たりにした。

 漁師だった直保さんは、木製の漁船ごと日本軍に徴用されており、被弾した軍艦の兵士の救助に当たるよう指示され、漁船に残っていた。その時すぐ近くのタンカーが被弾。爆発に巻き込まれた漁船は、無数の木片となって直保さんの全身に突き刺さった。直精さんが対面した時は、一命は取り留めたものの、体は血だらけで全身包帯の痛々しい姿だった。

 その後、一家は北部へ疎開したが、食べるものはなく、毒のある草や害虫の入った果物を食べては病気にかかった。幼い妹は、熱を出して亡くなった。

10・10空襲で全身にけがを負った父親の普天間直保さん(戦後撮影)

 戦後、那覇へ戻った後も困窮生活は続いた。直精さんは軍作業や漁師、店員として働き、稼いだ金は全て食費や直保さんの治療費、7人の妹や弟たちの学費などにまわした。

 直保さんの体に突き刺さった小さな木片は、膿(うみ)とともに体から出てきたが、木片はつぶすと粉になるほど腐っていた。空襲から22年後、55歳の時、けがが原因とみられる病気で亡くなった。「誇りが高く、『国の世話にならない』という父親だった。国に怒っていたかのように感じた」と、今は分からないその思いを想像する。直保さんは「あの時死んでいれば」とよく口にしていた。死ぬまで傷だらけだった父。毎日、仏壇を拝んでは父のことを思う。

 自身も病気がちになり年を感じる中、戦争体験を残したいという思いから、先日孫の大城玲奈さん(20)とICレコーダーを買いに行った。働き詰めで学べなかったため、字がうまく書けない。しかし話すことはできる。

 戦後も長く続いた苦労。「どれだけ苦しかったか言葉にできない」と話す。だからこそ戦争を起こしてはならないと、子や孫に語り聞かせてきた。これまでの歩みを、孫たちにレコーダーの使い方を教えてもらいながら残していく決意だ。
(中村万里子)