西普天間に「郡道」跡 開発へ取り壊しも 識者、保存求める 宜野湾市


この記事を書いた人 大森 茂夫

 【宜野湾】米軍キャンプ瑞慶覧・西普天間住宅地区の返還跡地で、戦前の郡道の跡とみられる「普天間旧道跡」が良好な状態で残っていたことが16日までに分かった。有識者は保存の必要性を指摘しているが、宜野湾市はすでに決まった跡地利用計画の変更は困難とみており、現状では取り壊す可能性が高い。

 旧道跡が見つかった場所は、現行の跡地利用計画では住宅地等ゾーンと道路に当たる。戦後米軍基地となって住宅などを建てる際、盛り土がされていたため、良好な保存状態で残っていたとみられる。

 2015年の試掘調査でも旧道跡は見つかっていたが、17年6月から12月までに実施された文化財調査で保存状態が極めて良好だったことが分かり、注目を集めている。宜野湾市教育委員会によると、記録保存はすでに終えた。

 今回見つかったのは、当時の宜野湾村普天間から大山まで続いていた郡道の跡だ。道幅が約4・5メートル、長さは約180メートル。道の両端は石灰岩の「切石(きりいし)」で舗装されている。普天満宮の前を通ることから地域の人々が「ティラヌメー」と呼んでいた、主要道路の一つだった。

 沖縄国際大非常勤講師の恩河尚さんによると、道の中央が盛り上がっており、水が端に落ちるような「水はけ」の機能があったとみられる。普天間から県道に直結させる利便性や、当時大山にあった製糖工場にサトウキビを運ぶ目的があったと分析する。恩河さんは「これほど、きれいに残っている郡道跡は初めて見た」と語った。

 宜野湾市教育委員会は「沖縄戦による消失を免れた文化財で当時の人々の生活や歴史を垣間見ることのできる重要な遺跡だ。当時の石像土木技術を知る上でも貴重だ」と位置付ける。

 西普天間住宅地区跡地の重要文化財保存整備計画を策定する、検討委員の池田栄史琉球大教授は「壊してからでは遅い。話し合っていい知恵を生み出したい。後は地権者を含めて市民がどういう計画を望むかが大事だ」と語った。