インフレ、闇取引横行、米軍統治下の沖縄で布令により創立 通貨発行、金融機関の監督統制…沖縄の戦後復興支えた琉球銀行


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 琉球銀行(川上康頭取)は、5月1日で創立70周年を迎えた。米統治下で布令によって創立した琉銀は、沖縄戦の焦土から復興しようとする沖縄経済を支えてきた。日本復帰やバブル崩壊という難局も、県民と共に乗り越えてきた。今日、日本とアジアをつなぐ島として飛躍する沖縄の姿は、激動の戦後沖縄経済の発展に寄与してきた琉銀の存在があった。その歩みと今後の展望を紹介する。

創立時の琉球銀行本店。建物の右側は元鹿児島興業銀行(現在の鹿児島銀行)那覇支店、左側は元日本勧業銀行那覇支店の建物を利用している(琉球銀行提供)

 1948年5月1日、琉球列島米国軍政府布令第1号により琉球銀行が誕生した。琉球政府が成立する52年4月よりも4年近く前のことだった。日本本土の地銀とは異なり、一般銀行業務のほかに特定権限として通貨発行や琉球列島の全ての金融機関への監督統制権が認められた、中央銀行的な性格の強い銀行として産声を上げた。

 沖縄戦で生産施設のほとんどが破壊された沖縄では終戦直後の物々交換期を経て、46年に貨幣経済が復活した。米軍政府による経済統制もむなしく、物資の絶対的な不足を背景に闇取引が横行し、激しいインフレが庶民を苦しめた。「琉球銀行三十五年史」によると、役人の初任給月額180円に対してたばこ1箱20円というありさまだった。

 米軍は戦後インフレの抑制と金融経済のコントロールの必要性から琉銀の創立を急いだ。創立直後の48年7月には「B円」への通貨統一が実施され、貯蓄増強運動により過剰通貨が縮小するなど、インフレ抑制が進んだ。

 米軍が株式の51%を持っていたこともあり、琉銀は行政的な機能も担っていた。元頭取の故・崎浜秀英氏の回顧によると、外国銀行からの借入金利が上がった場合でも砂糖や米の小売価格を上げないために、製糖会社や食糧会社からの金利据え置き要求に応えて「逆ざや」を他でカバーすることもあったという。

 「三十五年史」は、物資が乏しかった創立当時の状況も伝えている。貨物自動車や店頭の看板用にベニヤ板の特別配給を米軍に申請したという。48年11月には「発電所が軍の都合により運転を止めたので電気の供給がなく、20余名の職員が毎晩暗闇で生活している。銀行業務上その他の不便を来している」と米軍に対して電力供給を切願している。49年には基本的な物資がそろい、補給の申請も減少したという。

 日本本土との交流も簡単にはできない時代だったが、行員たちは沖縄経済復興のために駆け回った。現在、行史の編集に当たるりゅうぎん総合研究所の照屋正常務は「新しい商品やサービスを開発しようというパイオニア精神や使命感は、先輩たちから連綿と受け継がれていると感じる」と話した。

◆バブル崩壊で苦境も

 70年にわたり沖縄経済を支えてきた琉球銀行だが、苦しい時代も経験した。バブル崩壊の余波を受け1996年3月期には初の赤字決算に転落。一足先に沖縄から撤退していた県外銀行の融資を貸し支えしていたこともあり、県外に遅れて沖縄で表出した影響が経営を直撃した。

 追い打ちを掛ける事件も起きた。98年1月8日、琉銀の経営不安をあおる文書や電話が無差別に掛けられ、預金者の問い合わせや多額の預金が流出する事態に直面した。99年には公的資金注入を受けてリストラを進め、2010年の完済まで厳しい時代が続いた。

 川上康頭取はバブル崩壊後、総合企画部で経営計画の策定を担い、人事部でリストラ計画に携わるなど、処理の最前線に立ち続けた。「風説の流布は犯罪的行為だが、(経営不安と)言われても仕方ないくらい銀行が弱っていたのかもしれない」と振り返る。

 一方で「つらい目を見たことが、琉銀の強みにもなっている」と語る。琉銀は99年9月、第三者割当増資により227億円の資本増強を図り、経営基盤を強化した。川上頭取は5千弱の県内企業や個人、自治体が第三者割当を引き受けたことを振り返り「一番大変な時に県民に支えてもらった。その思いにどう応えるか。県経済の発展や取引先への資金供給をしっかり担っていく」と強調する。

 琉銀は現在も「風説の流布」を公表した毎年1月8日をメモリアルデーとし、当時の新聞記事や頭取のメッセージを交えたビデオを行内で流し、信頼の大切さを継承している。

 川上頭取は「お客さまへの感謝の気持ちを忘れてはならない」と気を引き締めた。