社会

全身にやけどをした少女 伊波則雄さん

 1枚の絵がある。焼ける校舎に赤い炎。散乱する一斗缶。後方には事故を見ている人だかりに墜落するジェット機。手前には少女の手を引く男性の姿が描かれている。宮森小にジェット機が墜落した直後の様子を象徴的に描いた絵だ。


事故直後の様子を描いた絵

 絵を描いたのは伊波則雄(いは・のりお)さん(80)。事故直後、校内に入り、燃えさかる校舎の消火活動に参加していた。絵の中の男性は伊波さん自身だ。女の子は当時2年生の喜屋武玲子(きゃん・れいこ)さんだ。「すさまじい光景だった。この光景が一番印象に残っている」と絵に視線を落とした。


「痛いよ、痛いよ」。泣く少女の手を引いて


 巡回教師をしていた伊波さんはその日、宮森小近くの石川中学校で2時間目の授業を終えて、校内にあった石川連合地区教育事務所に戻り、席に着こうとしていた。校舎の上を米軍機がごう音を立て通り過ぎる音。その直後、爆音が響いた。外を見ると自宅の方角に黒煙が立ち上っている。とっさに窓を超えて外に出て走り出していた。

 たどり着いたのは前年度まで補助教員をしていた宮森小学校だった。脳裏に教え子たちの顔が浮かんだ。

 校内に入る寸前、学校内から近所の人が飛び出してきた。「伊波先生、この子をお願いします」と女の子を託された。女児は髪が焼けて縮れ上がり、服は背中に5センチほど残しているほか全て焼け落ち、靴だけ履いていた。

 むき出しになった肌は青白く、生気がなかった。女の子は「痛いよ。痛いよ」とか細い声で泣いている。手を引いて歩こうとしたが、少女はうまく歩けなかった。おぶって連れて行こうと体に触れると、青白い皮膚がずるりとむけて手に付いた。再び手を引いて歩き始めた所、駆け付けた米兵2人が少女を抱え、大通りの方に向かい走っていた。

 その少女は陸軍病院に運ばれたが、亡くなった。のちに少女の名前が喜屋武玲子さんということを知った。


事故直後の様子を語る伊波則雄さん=2018年6月、沖縄県読谷村

燃えさかる校舎


 少女を米軍に引き渡した後、伊波さんが校内に入ると、駆けつけた住民が消火活動をしていた。一斗缶に水をくみリレー方式で校舎に水をかけようとするが、急いで運んでいるせいか、水が一斗缶からこぼれ落ち、いざ屋根にかけようとしても中にはわずかな水しか残っていなかった。ガソリン燃料に引火し、勢いよく燃える校舎への散水。わずかにかけた水も熱湯になって跳ね返ってくる。バケツリレーではどうにもならないことは誰もが分かっていた。それでもただ燃え尽きるのをみているわけにもいかなかった。20~30分後、校舎は全部焼け落ちた。

 校内を歩く中で亡くなった児童が複数横たえられている様子や血痕が残る生々しい現場を目撃した。「児童は全員負傷したのではないか」と思うほどの惨状。幼い頃のサイパンでの戦争体験が頭によぎる。戦争でも見たことのない状況だった。

 しばらくすると学校敷地の外に出るように指示された。指示通り外に出ると、学校は規制線が貼られ、再び中に入ることはできなかった。米兵によって締め出された多くの保護者が規制線の外でわが子の名前を泣き叫んでいた。


けがをした児童を運ぶ米兵=1959年6月30日

変わらない空の危険


 沖縄戦から14年。戦の記憶が生々しい頃だ。沖縄戦を生き延びてきた大人たちは「戦争だ」と混乱し、戦後生まれの児童たちは何が起きたのか分からず右往左往していた。あの光景は忘れることはない。

 宮森の事故以降も米軍機の墜落やトラブルは後を絶たない。2017年末には小学校と保育園に相次いで米軍機の部品が落下した。その時も頭に浮かんだのは宮森の事故のことだった。しかし、国会では与党の国会議員が米軍ヘリのトラブルを巡る質問に対し、「何人死んだんだ」とヤジを飛ばしていた。「人が死ななければ落ちていいのか」。怒りがこみ上げた。「基地がある以上は何度も事故が起こるのは当然。だから沖縄県民が本当に一緒になって反対するのはいつなのかを思っている」。戦後73年たっても変わらない沖縄の空を見上げる。


(宮城美和)





奪われた幼い命 ―宮森小 米軍ジェット機墜落事故― はこちら

 



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