忘れぬ惨事 悲しみ癒えず 響く爆発音 火だるまの児童 宮森小米軍機墜落59年


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「事故の悲しみは癒えない」と語る新里律子さん=5月28日、恩納村

 「あの日のことを忘れたことはない」。1959年6月30日午前10時40分ごろ、教室にいた新里律子さん(87)=恩納村=の耳に突如、大きな爆発音が響いた。児童ら18人が犠牲となり、戦後沖縄で最大の米軍事故である石川市(現うるま市)の宮森小米軍ジェット機墜落事故から59年。4年生の学級担任だった新里さんは「何十年たっても悲しみは癒えない」と目を潤ませた。

 事故直後、はぎ取られた屋根の上にタンクのようなものがあったのを目撃した。「もしあれが爆弾だったら、早く逃げなければいけない」と児童を避難させた。そのさなかにも、火だるまになっている子や、頭の位置がどこにあるのかも分からないほど全身が傷つき、横たわった子らの姿が目に飛び込んできた。

 数カ月がたち、遺族や負傷した児童の家を一軒一軒回った。「家族の悲しみ、苦しみを知り、伝えなくてはいけないと思った」と、事故の証言者になることを心に決めた。

 事故から50年後、当時の職員が集まって事故を検証する「職員会議」が開かれることが決まった。これを前に、息子を亡くし、悲しみに暮れる母親の様子や、被害児童の自宅を謝罪しながら訪ねた教師の話を思い起こして文章にまとめた。それは50年間ずっと考えてきたことだったという。

 新里さんは「体験を多くの人に知ってもらいたい」という思いを胸に、慰霊祭や事故に関連する講演会にはできる限り足を運ぶ。機会があれば自らの経験を聴衆に語る。語り継ぐなどの行動が、被災者の悔しさを和らげることにつながると考えているからだ。

 「遺族の人や負傷者の悲しみ、苦しみは私の何十倍もあるだろう。それを考えると今でも本当につらい」と声を震わせる。生き残っている児童に対しても、現在どのように暮らしているのかと常に気にかけているという。

 昨年相次いだ米軍による部品落下には「事故は宮森小学校での悲劇を思い起こさせた」と言う。「基地があるから事故は起きる。基地はなくさなくてはいけない」と断じる。その上で「過去の悲惨な事故を繰り返してはいけない。人の命を軽んじるなと叫びたい」と強く訴えた。 (宮城美和)