負傷1年 いまだ補償なし 住民の苦痛 克明に 宮森小事故「東恩納リポート」


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 1959年の宮森小ジェット機墜落事故から約1年後に米軍が負傷者に実施した聞き取り調査をまとめた「東恩納リポート」からは、負傷者とその家族が事故発生から約1年後も米軍からの補償を受けられず、精神的苦痛と不安を抱いていることが浮き彫りになった。これまでリポートの全容は分かっていなかった。県出身で、事故当時米軍将校として調査した東恩納良吉さん(82)=米ハワイ州=は、負傷者の最大懸念事項は「損害賠償」とし「大半が賠償の早期解決を求めている」と報告した。

負傷者の状況が記された1960年5月25日付作成の「東恩納リポート」

 リポートは事故を語り継ぐ石川・宮森630会が米公文書館から入手した。

 米軍は負傷者を治療するために60年5月、米本国から整形外科医を呼び寄せ、治療対象の負傷者に宮森小学校へ集合するよう事前に呼び掛けた。だが当日、集合場所には誰一人来なかった。そのため、当時の琉球列島米国民政府(USCAR)最高責任者のブース高等弁務官が負傷者の状況や心理状態を把握するよう、東恩納さんに調査を命じた。

 調査期間は60年5月20~24日で、東恩納さんは約10軒の被害者宅を訪問し、けがの様子や心境を調査した。

 リポートには、やけどを負った児童の母親が「ひどく顔が崩れてしまった娘は生涯羞恥心から苦しまなくてはならず、米軍は娘の精神的苦痛も賠償額に考慮にするべきだ」と必死に訴える声などが記されている。また「事故後約1年たつにもかかわらず、米軍からはいまだに補償の額や時期など明確な報告がない」と被害者の憤りも盛り込まれている。

 負傷者が治療のために指定場所に来なかった理由について、東恩納さんは「被害者の会のリーダー的人物が行かないよう呼び掛けていたことが背景にあった」と分析。反米感情のほか米軍から事前に手術や医師に関する十分な説明がなかったことを不安視する意見があったことも報告した。

 聞き取り調査の総括として(1)負傷者の大半が賠償金の早期決着を求めている(2)少数を除き、負傷者は米医師による治療に満足している(3)憂慮すべき事態は、民連や沖縄社会大衆党、ジェット機事故賠償被災者連盟など圧力団体がかき立てている―ことが分かったとまとめた。
(当銘千絵)