<未来に伝える沖縄戦>学童疎開で友人失う 我喜屋芳子さん


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 幼少時代を那覇市の松山で過ごした我喜屋(旧姓仲井間)芳子さん(87)は、戦禍を逃れるため北部を転々としました。1945年6月23日、沖縄戦の組織的戦闘が終わったことを知らないまま家族で山に隠れ続けていました。我喜屋さんの話を首里高校1年の仲村茉奈さん(16)と當山千夏さん(16)が聞きました。

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ヤンバルでの疎開暮らしを語る我喜屋芳子さん=4日、南風原町新川

 《我喜屋さんは1931年に旧玉城村(現南城市)の奥武島に生まれます。油の行商をしていた父・憲幸さんの仕事の都合で、生まれてすぐに那覇の松山に引っ越しました》

 久茂地国民学校高等科(現在の中学校)に上がると、戦争の気配が濃くなってきたこともあり、勉強はほとんどせずに壕造りの作業ばかりしていました。そのうち、がじゃんびら(現那覇市垣花・安次嶺)にある高射砲隊の作業にも行きました。何の作業をしたかは覚えていませんが、お礼に大きなおにぎりをもらったことを覚えています。小禄の飛行場へも何回か作業に行きました。作業ばかりで学校に行った記憶は本当にありません。

 《44年になると沖縄の旧国民学校の児童らを九州に移す「学童集団疎開」が始まります》

 本土は安全だからと先生に疎開を勧められました。多くの友人が疎開するので、私自身も一緒に行きたいという気持ちがあったのですが、父が「家族はみんなでいるものだ」と言い、疎開をすることは叶いませんでした。

 友人たちが対馬丸で本土に旅立つ日は、母と港までお見送りに行きました。多くの人がお米と砂糖を持って乗船します。私の友人も同様にお米と砂糖を持っていましたが、出発前に砂糖の袋がねずみにかじられて穴が開いていました。

 私の母が、友人の母親に「良くないことが起こる前触れかもしれない。やめたら」と言うと、友人の母は「たいしたことないよ」と言っていました。ほかの友人も腰に付けていた救急袋のひもが切れてしまったりと、うまく説明できませんが、不思議なことが相次いで起こりました。家族で疎開する家だけではなく、子どもだけで疎開する子も多くいました。母親にしがみついて「あんまー行かんでー」と泣き叫んでいる子もいました。

 終戦から何年も後に、私が自分の子どもを連れて那覇の開南を歩いていたら、たまたま友人の母親に会うことがありました。「生き残っていたら、あの子も子ども連れて、こんなだったのかねぇ」と悲しそうに言っていたのが忘れられません。そんなこともあって、慰霊祭へは長いこと行くことができませんでした。生き延びてしまい申し訳ないという、少し後ろめたい気持ちがありました。

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 《44年10月10日、米軍の機動部隊が南西諸島を襲いました。艦載機が軍事施設から住宅まで無差別に爆撃しました。「10・10空襲」と呼ばれています》

 7時過ぎでしょうか。学校に行く準備をして、朝ご飯を食べていたころでした。食卓にはヤギの油で揚げた天ぷらやシブイのお汁が上っていました。外に出ていた父が「空襲だ」と叫びながら戻ってきて、私たち家族は道向かいにある防空壕に避難しました。しかし、この防空壕もそのうち危険になるだろうと父が判断し、すぐに浦添の安波茶にある叔父の家まで家族8人で逃げました。その後、村はずれにあった大きな家に移りました。そこには機関銃部隊もいました。沖縄出身の少年兵もいました。当分の間は一緒に生活していました。

 《米軍が慶良間諸島に上陸したことを日本兵から聞いた我喜屋さん一家は、避難地として割り当てられた国頭村佐手に移動しました》

 安波茶を離れる時に、一緒に過ごしていた大尉から「戦争に勝つために避難するんですよ。皆さんがここにいたら足手まといになってしまい、思うように働けないのです」と言われました。そして、石川までトラックで運んでくれました。そこからは、昼は危険なので山に隠れて、夜に急いで移動しました。周囲も皆同じことを考えていて、夜は避難する人がそこら中にいました。既に亡くなった子を抱きかかえて「医者はいませんか」と叫んでいる母親もいました。

 私の下の妹も、はだしで歩いていたため、足の裏がただれてしまっていました。親切な人が荷車に乗せてくれて、どうにかして佐手に着くことができました。

 しばらく佐手で過ごして、軍作業がある私と軍の仕事をしていた父は那覇に帰ることになりましたが、那覇へ向かう途中で出会った方に「辺土名から向こうは米軍が上陸していて、危険です」と教えてもらい、佐手へ戻り難を逃れました。教えていただかなければ、おそらく命はなかったでしょう。

※続きは7月25日付紙面をご覧ください。