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<メディア時評・安田純平さん解放>広がる自己責任論 報道へのリスペクト 欠如


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 安田純平さんの解放を巡り、「自己責任論」が広がった。本人も認めているように、ジャーナリストが個人の意思とそれに伴う責任で危険地に入るわけで、その範囲での「自己責任」はある。しかし、ネット上で流布されているものは、国に迷惑をかけたことに対する責任を追及する点で、似て非なることに注意が必要だ。

距離感と不信感

 こうした批判の一つの特徴は、「怪しい感」を理由にするものだ。韓国との二重国籍であるとか、日本国パスポートは没収されたとか、何度も拘束されているのに出掛ける拘束ビジネスだとか、まさに根も葉もない「デマ」の類いが、そのまま拡散され、なんとなく信じられてしまっている状況だ。あるいは、拘束されていたにしては元気すぎるとか、歯が奇麗すぎる、といった「安田=怪しい人」のイメージ作りがネット上では広範に行われ、これに相当の人が感化されている。こうした影響を受けやすい理由として考えられるのが、距離感と不信感だ。

 前者の「距離」は、地理的物理的に遠いということ、日本との関わりが見えづらい、あるいはシリア料理、シリア人が近くにいないなど、身近でないということ、そして戦争自体が遠い存在であることなどがあげられる。一方で「不信」は、ずばりメディアに対する批判・不信・不要の感情だ。1980年代以降、多少の波はあるにせよ、一貫して高まっているメディアに対する否定感情が広く定着していることが、マスメディア上で、安田さんに対するいわゆる擁護論が出れば出るほど、その逆張りである否定論が強まるという傾向がある。

 こうした距離と不信を根底にした怪しい感が、正論を超えて存在しているだけに、事態はより深刻だ。それは、04年のイラクで捕虜になった3人が帰国した時に巻き起こった、バッシングに比してという意味においてである。当時、自己責任論の急先鋒(せんぽう)は、政府要人であり、それを受けての保守系識者であった。その背景には、政府のイラク戦争への対応等への批判をかわすといった、政治的背景なども見え隠れする中で、ある意味では政治によって作られた自己責任論であったとも言える。しかし今回は、政府からも目立った反応はない。それでも、すでに社会に「自己責任論」が定着し、わざわざ、そうした世論を意図的に作る必要がない状況に、社会がすでに変わってしまっているということだからだ。

「無責任な迷惑者」

 しかも、その批判の仕方も冒頭にあげたように、「迷惑論」である。国に対して迷惑をかけた「日本人の恥」ということになる。これまた本人が記者会見の冒頭で述べたように「政府が当事者になった」ことは事実であるが、それが迷惑であるかどうかは別だ。むしろ、政府の世話になるということは、広く考えれば、病気になった場合の救急車もそうだし、海や山での救難活動も該当するだろう。北朝鮮に拉致された者を助ける行為を、政府に世話になった迷惑者とは、だれも言わない。

 もちろん、ここでもう一つの問題が生じる。それが、「わざわざ自分から好きこのんで行った」という「無責任な迷惑者」論だ。この点に関しては、ジャーナリズム活動に対する理解を社会的に醸成する以外に対抗策はないとも言える。ジャーナリズム活動とはそういうものだ、ということであり、こうした職業を社会的に必要と思うかどうかということだ。あえて結論を確認しておくならば、これはジャーナリズムの社会的存在意義そのものであり、市民になり代わり、あるいは代行して知る権利を行使し、様々な情報・知識を伝える社会的機能を評価する社会が、民主主義の前提であるということを、日々のジャーナリズム活動を通じてメディア自身が証明していくしかない。ただしもちろん、そうした合意を形成するための教育も重要だし、それを率先するのは政治家の役割だ。しかし、例えば今回の批判の渦の中で、政治家が積極的に安田さんの取材・報道活動を評価することはないし、そもそもその前に、戦地取材を邪魔することはあっても、それらを評価するような姿勢をとる政治家がいないことが、日本の不幸であるとも言える。

 そしてもう一つ、この迷惑論を複雑にしているのが、「国家」との関わりだ。そもそもジャーナリズムたるものは、権力批判に代表されるように、国あるいは公権力に対しては批判的な立場にあることが一般的だし、そもそも「国」なるものとは離れた存在である。要するに、国益のために働くのは公務員であって、ジャーナリストではないということだ。しかしそうした国と離れた存在であるはずの報道活動が、いったん囚(とら)われの身になった瞬間に、国によって救出される関係になる。それはジャーナリストとしてではなく国民との関係で国が出てくるわけだが、それが混然一体となって、国を批判する立場の記者が国に救出される対象になって恥ずかしくないのか、といったねじれた批判が起きる原因になっている。

 あくまでも、パスポート保持者である限り、発行元である国は、自国民を救出する義務があるのであって、その人がどういう人であろうと助けなくてはいけないのであって、それ以上でも以下でもないはずだ。

危険回避

 もちろん、記者自身にも、危険回避の努力義務はある。いわば報道倫理・行動綱領の一つと言ってもよかろう。IFJ(国際ジャーナリスト連盟)などの国際報道機関はそのためのマニュアル本を発行しているし、日本新聞協会が1987年に、ルイーズ・モンゴメリー編『危険な任務を帯びたジャーナリスト:命を保つための手引き』を翻訳出版している。

 こうした、しかるべき記者としての最低限の作法を守ることは大切であるが、戦争(紛争)地に行った場合、様々な身体拘束を受ける可能性があるのであって、それをもって努力不足であるということにはならない。むしろ、まっとうな取材をしているということは、それだけ取材対象からは疎んじられているわけで、拘束等の取材妨害の可能性・危険性はそれだけ高いということだからだ。

 だからこそ、万が一拘束された場合は、その救出のために国際的連帯の中で、その努力がなされるわけだし、無事解放された場合は、帰還を素直に歓迎し、こうした危険を冒してまで取材をするジャーナリストは感謝の対象であるのが自然の流れだ。こうした「当たり前」が起きない日本は、ジャーナリスト、ジャーナリズム活動に対するリスペクトが決定的に欠如しているということにほかならず、そのこと自体が極めて危険であると言える。 (山田健太 専修大学教授・言論法)

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