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<メディア時評・ファクトチェックの意義>報道変える起爆剤 選挙の「公平縛り」脱却

県知事選の期日前投票で1票を投じる有権者。県内2紙は知事選報道でファクトチェックを実施し、紙面化した

 辺野古新基地建設を巡り、12月は大きなヤマを迎えている。

 政府はパフォーマンスとしての「土砂投入」を宣言し、海は埋め立てられ不可逆な状況まで進んでいるとの既成事実化を図ろうとしている。本土メディアは間違いなく大挙して押し寄せ、その様子を大々的に報じ、結果として沖縄に諦めを強要する空気を醸成する役割を担うことになるだろう。翁長雄志前知事の遺志である承認の撤回は、国が私人に成りすます荒業と、いわば政府と一体化した司法判断によって、結果として問答無用の雰囲気作りが進んでいる。この点についても本土メディアの結果のみを伝えるストレート記事によって、沖縄の“悪あがき”感が助長されるという消極的加担が目を覆うばかりである。

 そして2月の実施が発表された県民投票については、4市が非協力の姿勢を示すことを伝えれば伝えるほど、沖縄の基地に対する意思は県内バラバラであるというイメージを作ってしまっている。そもそも、気に食わない事務は拒否するということが許されてしまっては、通常の選挙事務も地元小学校の運動会を優先したいので協力しません、ということが許されてしまうということだ。

 こうしてみると、これら事態をどう伝えるかで、受け手の認識が全く違ってしまうことがよくわかる。だからこそ、報道機関は「いまをどう伝えるか」に心血を注ぐことになる。


県知事選


 通常の選挙期間中の紙面や番組を思い起こしてほしい。各候補者を必要以上に「平等」に扱うことに気を使っていて、新聞で言えば行数も写真の大きさも寸分たがわぬほど同じスペースである。一方の候補者のみを批判し、結果として貶(おとし)めることはご法度だ。しかしその結果、候補者情報は通り一遍の表層的なものになりがちで、有権者にとって投票にあたっての有益な情報にはなりえていない可能性が高い。

 あるいは各報道機関は、事前の情勢調査(投票所の出口調査も含む)に莫大(ばくだい)な経費をつぎ込んでいて、その結果の一つとして、「ゼロ当」と呼ばれる開票率0%の投票締め切り時間と同時に「当選確実」を報道するという離れ業ができる仕組みだ。しかしこれが本当に必要な選挙報道かと言えば、いわばショー的要素が強いと言っても過言ではなかろう。

 そうした中で9月に実施された沖縄県知事選では、新たな動きが見られた。日本初のファクトチェックの実施である。しかも琉球新報と沖縄タイムスの両紙が、期せずして両方とも実施したことに意味がある。さらに言えば、紙面化された「嘘(うそ)情報」が両紙で一つも重ならなかった点も興味深いところだ。すでに本紙読者にとってはよくご存じのことだが、琉球新報の「ファクトチェック(フェイク監視)」で紙面化されたのは、知事選世論調査(8日)、沖縄振興一括交付金(21日、27日に続報)、安室さん特定候補者支援(24日)と、携帯電話料金削減公約(25日)の四つである。そのほかに「ツイッター分析」も実施し、選挙後も、「ファクトチェック」のワッペンは継続されている(例えば、11月16日付で菅官房長官の記者会見の誤りを指摘)。

 一方で、沖縄タイムスの「偽ニュース調査」では、候補者政策の文字数、翁長前知事の言動、佐喜真淳候補の市長実績(いずれも27日)をニセ判定している。手法としては、約70本の収集情報から、17本を検証対象に行ったという。


言えば変わる


 どちらの手法が「正しい」かの正解はないのであって、今後、経験を積んでいくしかなかろう。どちらも、事実関係から明らかな「虚偽」をフェイクニュースとして判定している点では変わりないが、あえていえば、沖縄タイムスは「指摘検証型」とでも言えようか。候補者名を明記したうえで、自社サイトと連係して、追検証ができるようにファクトデータのリンク先やフェイク画像を掲載した。一方で、琉球新報は「アラーム型」だ。何よりも、選挙期間が始まる段階からフェイク指摘を行い、デマの拡散をより早い段階で摘み取る働きを示したと言えるだろう。あるいは、政策内容にもあえて踏み込み、投票行動に大きな影響を与えるとみられる候補者の書き込みを指摘した。その違いは、両紙の社風とも言えるし、協力先の差でもあろう。ファクトチェック・イニシアチブ=FIJ(新報)と藤代裕之研究室+国際ファクトチェック・ネットワーク(タイムス)の、判断基準や考え方が影響したということだ。

 ただし、両紙の違いよりむしろ重要なのが、なぜ日本で初めて選挙期間中のファクトチェックが実施できたのかだ。その一つは、過去の二つの経験に起因すると言えないか。普天間飛行場にもともと人は住んでいなかったというような、いわゆる沖縄神話に、両紙は紙面とネット上で、そしてそれらをまとめた単行本で、繰り返し「反論」した体験がある。その結果として、こうした神話はだいぶ鳴りを潜めつつある(それでもまだ執拗(しつよう)に流されてはいるが)。言えば変わるの「成功」体験だ。一方で、痛い前例も経験している。県知事選の前の名護市長選では、「日ハム撤退」デマが、とりわけ若者層を中心に選挙行動に大きな影響を与えたとされたからだ。

 こうした体験があったからこそ、先述したような選挙期間中の「公平縛り」から脱却し、一方の候補者の批判につながる記事は平等性に反するからできないという「思い込み」を超えて、一歩踏み込むことができたのではないか。

 また、ファクトチェックは新聞の役割外という暗黙の了解が報道界には存在するようにも思える。情勢調査(予測報道)や候補者の政策紹介が本筋で、現実としてヒト・モノ・カネもこれらの取材に集中投下している。結果として、ファクトチェックは選挙報道の枠外で、第三者機関のやることという思いが強いということだ。あえて言えば、新聞は事実報道をしているのであって、選挙時のフェイク監視は報道ではないということになるのだろう。さらに、ネット言説にいちいち反応するのかという思いも、いまだに既存メディア間には強い。

 こうした従来の報道慣習を超える勇気こそが、閉塞(へいそく)感がある今日のジャーナリズムを変える起爆剤になりうる。それゆえに、いま沖縄にこそ、日本のジャーナリズム全体を活性化させるヒントがあるということになろう。


 (山田健太、専修大学教授・言論法)