駆け抜ける爽快感 手動車いすサッカー 来月金武で県大会 障がい問わず「誰でも」


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 障がいの程度に関係なくプレーできる、沖縄生まれの手動車いすサッカー。国内外では電動車いすの使用が主流だが、SNSや沖縄での体験をきっかけに県外にも手動が広がっている。県内で定期的に活動する、手動車いすサッカーチーム・Aboutの新里透久代表(28)=県車いすサッカー協会理事=は、「障がい者でも、そうでなくても誰でもプレーできる。多くの子どもたちにも体験してほしい」と魅力を語る。3月24日に金武町で開かれる県大会は14回目を迎え、14チーム以上が参加予定だ。競技存続の危機も乗り越え、親しみやすさで競技者を増やしてきた。 (古川峻)

練習でDFの脇を突きシュートを決めるAboutの比嘉慶士さん(右端)=14日、浦添市のサン・アビリティーズうらそえ体育館(ジャン松元撮影)

■存続の危機

 手動車いすサッカーは、浦添市のボランティア団体「クランクス」が1999年に始めた。程度の異なる障がい者や障がいのない人でもできる裾野の広さを持ち、2000年に最初の大会が開かれた。ボールは直径50センチと大きく、手で転がしてパスを回し、ドリブルする。ボールが床から浮くと反則になる。「障がいの程度によっては、前屈姿勢や浮いた球の処理が難しいから」(新里)という理由だそうだ。

 この間、使っていたボールが製造中止になり約5年間、色のはげた、空気の抜けたボールを使い続けたことから、競技存続の危機にも陥った。2018年にFC琉球を運営する琉球フットボールクラブの倉林啓士郎社長が運営する別会社のイミオが受託し、新たなボールに生まれ変わった。新里さんは「琉球さんに助けてもらわなかったら、自然消滅したかもしれない」と感謝する。

■14歳、出合う

 新里さんは先天的な脳性まひがあり、3歳から車いすに乗る。小中と通った泡瀬特別支援学校には当時部活がなく、スポーツはしてみたかったものの、縁遠かった。新里さんは「日常生活では危ないという理由で車いすを(人から)押されるのに、学校では(機能訓練のために)『運動しろ』と言われる。それでも、学校に運動の部活がないのも疑問だった」と振り返る。

 もやもやを振り払った大きな転機は、14歳。軽い気持ちで見学した手動車いすサッカーは、スピードが桁違いだった。競技専用の車いすがぶつかる鉄の音にも驚いた。「何これ。絶対に無理」が第一印象だったが、ひとまず練習に参加してみた。初めてのときは「まっすぐにもこげず、何もできずに終わった」。しかし、悔しさとともに、味わったことのない爽快感があった。

■喜び、次世代にも

 「運動する目的ができた」。心からやりたいと思えて、実際にプレーできる競技に出合った新里さんは、競技の先輩だった藤井康司さんと2人で車いすサッカーチーム「About」を立ち上げた。練習を始め、生徒会長になって車いすサッカーの部活化にも取り組んだ。部活立ち上げには至らなかったが、14年たった今でも、泡瀬特別支援学校では放課後の練習が続いている。新里さんは「自分たちも大人になった。今は小、中学生の新しいチームを作りたい」と楽しそうに話す。

 車いすサッカーの第14回県大会(主催・県車いすサッカー協会)は3月24日、金武町体育館で開かれる。2クラスに分かれ、フレンドシップクラスは初心者から参加できる。参加の問い合わせは県協会(電話)098(874)4932。

Aboutの(左から)我喜屋洋子さん、新里透久さん、父の建三さん、古謝みずきさん、比嘉慶士さん

 <用語>手動車いすサッカー

 1999年にボランティア団体のクランクスが始め、2000年に第1回浦添市大会が開かれた。県大会は2006年から毎年開催。世界的には重度の障がい者も多い電動車いすサッカーが主流だが、手動は程度の異なる障がい者や、障がいのない人も楽しめる。直径50センチのボールを使用し、手を使って転がすパスやシュートでゴールを狙う。