FC琉球前監督・金鐘成さん 在日コリアン三世として生きた歴史 ライバルチームに移籍した理由 藤井誠二の沖縄ひと物語(1) 


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 気鋭のノンフィクションライター藤井誠二さんが、スポーツ、文化・芸能、経済などの世界で活躍する沖縄ゆかりの人物に迫る連載企画「沖縄ひと物語」。初回はサッカーのFC琉球前監督・金鍾成(キム・ジョンソン)さんです。朝鮮籍の在日コリアン3世として生きてきた歴史、4年を過ごした沖縄への思い、ライバルチームに移籍を決めた理由は―。琉球をJ2昇格に導いた闘将の素顔に迫りました。

母校を訪れる金鍾成さん。夜のピッチには、かつての自分と同じようにボールを追う子どもたちの姿があった=2018年12月23日、東京都江東区枝川(深谷慎平撮影)

 金鍾成さんが、東京都江東区枝川(えだがわ)の自宅1階にある妻が経営する韓国料理店でビールを注いでくれた。キムチやナムル、ボイルしたセンマイ(牛の第3胃)も小皿に盛り、マッコリもテーブルに運んでくれた。「まあ、飲みましょうか」。沖縄のピッチでは多分見せなかった笑顔だった。もともとはプロサッカーという経済的にも不安定な世界で働く夫を思って、子どもたちも大きくなったことだし、と料理が得意な妻が店を開いた。

新たな挑戦へ

 ホームゲーム無敗という記録は、Jリーグ発足以来25年間では2例目の快挙だ。2015年からの1年間、FC琉球アカデミーダイレクター兼ジュニアユース監督を務め、16年にトップチームの監督に就任、昨季(18年)に残り4節を残してJ3最短で昇格を決めるという記録を打ち立て、記録ずくめでチームはJ2へと昇格した。

 かつてない攻撃的チームに育て上げた闘将は、4年間滞在した沖縄を離れ、今季からFC琉球と共にJ2に参戦する鹿児島ユナイテッドFCへ移籍する。

 3年のチーム発足以来の念願である昇格を果たしたのだから、沖縄にとどまってほしい、鍾成さんの采配をこれからも見たい。そんな声も少なくないはずだ。彼は「応援してもらった沖縄の皆さんには感謝の気持ちしかありません」と前置きして、「僕にとって残留か移籍かどっちを優先させるかで、僕が将来もらえるかもしれない、プロとして次のステージに行くための“チケット”に関係してくると判断したんです」と、プロとしての思いを語った。

 「もし仮に僕が琉球に残りもっと攻撃的チームにして、J2で中位くらいという結果になったとしましょう。そうなったとしても、その次のチケット、つまりサッカー界の中で指導者として上に行くためのステージのチケットがくるか分からないんです。今回は、琉球を昇格させた今、僕にチケットがきた。育成型監督としての力が認められたということです。だから僕はあえてチームを動いて、さらに新しい環境で監督を経験して、今後の人生で監督を長く続けていけるかどうかを試すことにしました。自分で自分をジャッジした結果でした。おおげさにいうとハイリスク・ハイリターンを選んだ。そのあたりはサポーターの人たちにも理解してもらえてうれしかったです」

差別の歴史

 枝川の町を鍾成さんと歩いた。師走の寒風に、長身の鍾成さんは思わず背中を丸めた。

 枝川1丁目は、1936年に東京オリンピックの開催が決定された時に東京湾岸部にバラック小屋を建てて住んでいた在日コリアンが強制移転させられて来た歴史があり、差別の歴史が凝縮された街だ。目と鼻の先に東京朝鮮第二初級学校が今もあるが、もともとは第二初中級学校で、鍾成さんもここに9年間通ってボールを蹴った。

「後の人生で監督を長く続けていけるかどうかを試すために移籍を選んだ」と語る金鍾成さん

 学校は縮小され、今は初級部しかなく、在日コリアンの子どもたちが40人ほど通っている。芝を張ったテニスコートほどのグラウンドは地域の子どもたちにも貸し出され、この日も照明に照らされたピッチで子どもたちが、指導者といっしょにボールを真剣に蹴っていた。鍾成さんはしばらくそれを眺めていた。

 鍾成さんが進学した朝鮮高級学校や朝鮮大学校、卒業後に入団した在日朝鮮蹴球団は、長くサッカーでは幻の強豪と呼ばれていた。なぜなら、高校選手権や高校総体、そして実業団上部リーグ等への参加資格が認められなかったからだ。日本政府が「正式」な学校として認めていないという理不尽な理由だった。だから、練習試合等で強豪チームと競り勝ってきたという歴史がある。その悔しさは鍾成さんのサッカーの原点の一つでもあり続けている。

 その後、30歳を超えてJリーグのジュビロ磐田、コンサドーレ札幌でプレーした。現役の間には北朝鮮代表選手としても活躍し、90年には南北統一大会のために在日コリアン選手として初めて北朝鮮から韓国に入った。南北分断後、在日コリアンが板門店を越えたのは彼で2人目だった。彼が背負ってきた歴史は沖縄ではどれほど知られていただろうか。

沖縄での4年

 98年に現役を引退した後はJリーグのクラブや母校などでコーチや監督を務めた。じつは彼が身に染み込ませてきたスタイルは、指導者の戦術や型を厳しく選手に教え込むもので、それが強さの秘訣(ひけつ)でもあった。だが、母校の高校や大学で監督をするうちに徐々に「自分たちで考えて動く」スタイルへと切り替えていった。FC琉球では、選手自らの判断で「自由」にピッチを走るサッカーを説き続けた。

 FC琉球のアカデミー監督を務めていた頃、子どもや保護者にも本音で自分の理想とするサッカーを伝えた。「最初につきあった沖縄の子どもたちと保護者が、僕のことを理解してくれたことに元気づけられましたね」

 トップチームの監督になってからも、チームのワンボックスカーを自ら運転して練習場へサッカーボールや水などを運び、雑務の一切を黙々と担った。そういう姿を見ていたから、監督の移籍を聞かされた瞬間に号泣した選手がいたのだと思う。

 「自分に自信を与えてくれた沖縄」は、鍾成さんにとってこれからアウェーになる。

(藤井誠二、ノンフィクションライター)

 ふじい・せいじ 愛知県生まれ。ノンフィクションライター。愛知淑徳大学非常勤講師。主な著書に「体罰はなぜなくならないのか」(幻冬舎新書)、「『少年A』被害者の慟哭」など多数。最新刊に「沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち」。