中小企業支援に尽力 沖縄海邦銀行 創業70周年


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
沖縄海邦銀行の前身となった沖縄無尽の2代目本店前で写真に収まる社員たち(沖縄海邦銀行提供)

 沖縄海邦銀行(上地英由頭取)は1日で、ルーツである沖縄無尽の創業から70周年を迎える。米統治下で経済再建に向かい始めた1949年、「手軽に利用できる庶民の金融機関を」と求める声に後押しされて沖縄無尽と那覇無尽が創業した。主に中小零細企業を対象に資金需要に応え、沖縄戦の焦土から復興する沖縄経済を支えてきた。

 会員から募った掛け金で資金を融通し合う「無尽会社」の設立は、企業活動が活発になるにつれて盛んになった戦後の資金需要に応える背景があった。当時は品不足ですぐに売り切れてしまう状態で、米軍布令によって設立された琉球銀行だけでは資金需要を満たしきれなかったという。

米軍払い下げのコンセットを利用した那覇無尽の本店(『沖縄海邦銀行55年史』より)

 「沖縄海邦銀行55年史」(2006年刊)によると、民間では月の金利が10%の「大1割」という高利も現れていたほどで、無尽を望む声が強かった。戦前の無尽会社で勤めた経験者らが米軍政府と交渉を重ね、創業にこぎ着けた。

 1953年には沖縄無尽が沖縄相互銀行に、那覇無尽が第一相互銀行にそれぞれ転換した。第一相互銀行が56年に那覇市の国際通りに建設した3階建ての本店は、屋上に大時計を設置した堂々たるビルで、本店と現在の国道58号を結ぶ「一銀通り」に名を残す。

 60年代に入ると金融機関の過当競争が顕著になり、両相互銀行は64年4月に合併し中央相互銀行となった。71年には沖縄銀行、南陽相互銀行との3行合併が発表されたが、最終的な詰めの段階で合意に至らず離脱。復帰直前の72年3月に、名古屋市に同名の相互銀行が存在したことから混乱を避けるため「沖縄相互銀行」に名称を改めた。

 元常務の山川健さん(72)は、74年3月に中途採用で入行した。無尽の名残として、市場などにある一部の店舗では「相互掛け金」と呼ばれる制度が残っていて、集金人が毎日集金に回っていたという。「当時は給料も毎年どんどん上がって、新しい支店も次々に開店していた。30代後半で支店長を任される人もいた」と振り返る。山川さんも36歳の若さで支店長に就任した。

 80年代に入り、全国の相互銀行で普通銀行への転換の声が高まり、沖縄相互銀行も普銀転換に取り組んだ。行名は行員からの募集で「沖縄海邦銀行」と決まった。山川さんは「相互銀行を1人前の銀行と認めてくれないお客さまもいた。業務的には変わりがなかったので移行はスムーズにできた」と当時を振り返りながら笑顔を見せた。

 元号が昭和から平成に変わって間もない89年2月に普通銀行となった後も、無尽時代から続く中小零細事業者への資金供給に努め、成長を続けてきた。