沖縄の最強公務員ランナー現役引退、後輩育成へ 戦友と転機のレース「2人に助けられた」 マラソン・濱崎達規


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 4月7日、沖縄県うるま市与那城総合公園陸上競技場を発着点に行われた第19回あやはし海中ロードレース大会(主催・同実行委、うるま市、共催・うるま市観光物産協会、ラジオ沖縄、琉球新報社)。このレースを人生の転機にしようという思いで臨んだ選手がいた。ハーフマラソンに出場し、1時間10分39秒の記録で初優勝した濱崎達規(沖縄工高―亜大出、なんじぃAC)だ。3月の東京マラソンで競技者として引退を決意。初めて勝利ではなく、自分自身、レースを楽しむために走った。転機の大会を思い出に刻もうと、学生時代からさまざまな大会で競い合ってきたライバル2人を誘って出場した。沖縄のマラソン界を長年牽引してきた濱崎は肩の荷を下ろし、次の目標に向けて新たなスタートを切った。

競技者として区切りをつけるため、あやはし海中ロードレースで仲間とともに走る濱崎達規(右端)=4月7日、与那城平宮(喜瀬守昭撮影)

目指すは東京五輪

 1万メートルを主戦場にしてきた濱崎は25歳で初めてフルマラソンに挑んだ。2014年のびわ湖毎日マラソンで手応えをつかむと、翌年の東京マラソンで2時間12分12秒を記録。「気持ちの強いやつが記録を出せる」とマラソンの魅力に取りつかれた。17年12月の防府読売マラソンを2時間11分45秒で完走して県記録を樹立した。

 南城市役所で働きながら走る毎日。出勤前後や休み時間とあらゆる時間を活用した。「追い込んで練習する。心も体も一流のアスリートだった」。全ては2時間10分34秒を切り、20年東京五輪のマラソン代表選考会を兼ねたグランドチャンピオンシップ(MGC)のワイルドカード(出場権)を獲得するためだった。

 しかし17年の防府マラソン以降、ふくらはぎの筋膜炎の痛みに苦しむようになる。18年の東京マラソンは3キロ地点で棄権。集大成にしようと臨んだ今年3月の東京マラソンは、2時間23分57秒でMGCを逃した。

 レース前、練習中から走ると足がぶるぶると震え、走りたくても痛みで足を動かすこともできない日があった。「気持ちも限界だった。これ以上自分を追い込むのは厳しい」

 懸けてきたものが大きかっただけに簡単に気持ちが切り替わるわけではない。とはいえ競技者としては「引退」を迎える決断に迫られた。「沖縄を背負う陸上は終わり」と張り詰めた日常から解放された。

後進を育てる

 7日に迎えたあやはしのハーフマラソンは、高校時代から切磋拓麿(せっさたくま)してきた県内トップ選手の仲間孝大(沖縄陸協)と与那嶺恭平(同)を誘い、10年以上ぶりにレースで競うことになった。濱崎にとって共に走ってきた「戦友」。「必死で走って何をやっているんだ」と思う時、優勝を共に競うことで背中を押してくれた。

 レース中は足が痛んだが先頭集団の中で2人のリードに引っ張られた。前半で余力を残したことで11キロ地点から2人を引き離していった。「今回のレースでも2人に助けられた」と感謝の念は尽きない。1位濱崎、2位仲間、3位与那嶺と旧友3人が表彰台を独占した。

 「必死で走ってきて、後ろを振り向くと後輩がついてきてなかった」

 濱崎は後輩の育成に力を入れようと18年4月、亜細亜大学で長距離経験のある仲里彰悟らとともに、小中学生の陸上の指導に当たるクラブチーム「なんじぃAC」を南城市に立ち上げた。「後輩を育てたい。一緒に走ることで伝えられることがあるはずだ」という思いから、今年1月に行われた都道府県対抗駅伝のメンバーに名を連ねた。

 東京マラソンでの煮え切らない思いも今後の目標に向けたモチベーションに繋げている。クラブチームの立ち上げなどに関する費用はSNS(会員制交流サイト)を活用した動画の制作やクラウドファンディングを始めている。「マラソンをかっこいいスポーツにしたい」。次の大きな目標に向けて濱崎はすでにスタートを切っている。
 (古川峻)