沖縄復帰47年 県民の要求は「核抜き、本土並み」ではなかった…


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
日米共同声明に対し「県民の願いと相れない」と表明した屋良主席の記者会見=1969年11月22日

 1969年11月22日、沖縄教職員会の文化部副部長だった石川元平さん(81)は失意のどん底にあった。この日未明の日米首脳会談は米軍基地を残したままの「72年沖縄返還」に合意した。新聞紙面に載った日米共同声明を幾度も読み返した。「基地は残して返還される。懸念した通りだ」

 前日深夜、那覇市松尾の八汐荘で、琉球政府幹部と共に共同声明の発表をテレビで見た屋良朝苗行政主席は失意の表情を隠せなかった。隣席の知念朝功副主席も大きく首を振った。翌朝の会見で屋良主席は「共同宣言の内容に満足するものではない」「平和な島を建設したいという県民の願いと相いれない」と苦しい胸中を明かした。

 石川さんは屋良主席の側近として復帰運動に力を注いだ。68年11月の主席公選でも秘書として選挙戦を支えた。屋良さんの公約は「即時無条件全面返還」だった。「『核も基地もない平和な沖縄』と分かりやすく訴えていた」と石川さんは振り返る。

 それから約1年。屋良主席誕生で示した沖縄の明確な意思を日米両政府が顧みることはなかった。

 日米共同声明は「核抜き、本土並み」を強く宣伝する内容だった。しかし、佐藤栄作首相とニクソン米大統領の間で有事における核持ち込みの密約を交わしていたことが後年明らかになった。石川さんは今も「欺瞞(ぎまん)的な復帰だった」との憤りをぬぐえない。

石川元平さん

 それから約半世紀の時が過ぎた。若い女性や子どもたちが犠牲になった米軍犯罪が続いた。平成の30年余の間にも沖縄国際大の米軍ヘリ墜落など重大事故が後を絶たない。県民は幾度も民意を表明したにもかかわらず、日米両政府は辺野古新基地建設をやめない。石川さんは「われわれが願った復帰ではない。今の状態は軍事植民地だ」と怒りをあらわにする。

 69年当時の記憶が人々から薄れていく中で危惧することもある。歴史の専門家や一部マスコミが「『核抜き、本土並み』が県民要求であったかのような表現がある」と指摘する。

 しかし、復帰運動で掲げた県民要求は「即時無条件全面返還」だった。日米両政府の「欺瞞」に地元が加担し、歴史の改変につながりかねない状況に警鐘を鳴らす。

 危機感を募らせながらも希望も抱く。若者の中にも基地問題や歴史に関心を寄せて活動する人がいる。米国で署名活動を展開するなど世界のウチナーンチュのネットワークもあり「これは沖縄の財産だ」と語る。

 屋良さんは最晩年、「沖縄は二度と国家権力の手段として利用され、犠牲を被ることがあってはならない」と遺言のような言葉を石川さんに残した。「今、沖縄の民意が無視され続けている。この国はいったいどんな国なのか」と石川さんは問い掛け、屋良さんの言葉を反すうしながら復帰の記憶をたどり続けている。
 (仲村良太)