社会

給食後一瞬の惨事 頭から滴る血、やけど…幼稚園からの記憶失う 小学校にジェット機墜落

大きな傷跡が残る頭部を押さえながら事故について語る當眞嗣孝さん=うるま市の「石川・宮森630会」事務所

 突然鳴り響くごう音、晴れわたる空をオレンジ色に染める火の粉。地面は揺れ、教室の窓ガラスは割れた。宮森小学校3年だった當眞嗣孝さん(69)=うるま市=は、頭から滴る血で顔面が真っ赤に染まった。頭蓋骨を折り、左頬にもやけどを負っていた。

 1959年6月30日、うるま市石川(旧石川市)に嘉手納基地所属の米軍ジェット機が墜落した。戦後沖縄で最大の米軍機事故ともいわれ、宮森小学校の児童ら18人が犠牲になった。重軽傷者も210人出た。

 この日は朝から暑かった。當眞さんがミルク給食を早めに終え、風に当たろうと教室の外に出た時、米軍機が墜落した。「一瞬のことで何も覚えていない。気付いた時にはベッドの上にいた」。當眞さんの頭のけがは、墜落で爆発した米軍機から飛んできた破片によるものとみられる。

 今でも當眞さんの側頭部から後頭部にかけて船の碇(いかり)のような大きな傷跡が残っている。「冬や雨の日にはチクチク痛む」という。當眞さんは2週間も意識不明の状態だった。その間、うめくように寝言を言い続けていたことも後で知った。起きた時には、動かないよう手足が拘束されていた。意識は回復したものの「たくさんの針で頭をたたかれているような激しい痛み」が襲ってきた。


事故後に撮影された當眞嗣孝さんの後頭部。頭蓋骨を骨折し、船の碇のような傷跡が残った(石川・宮森630会提供)

 「祖母がいなければ死んでいたかもしれない」。意識が戻る前、入院先の米陸軍病院は「手の施しようがない」として、當眞さんが亡くなったと判断。家族には、学校を通じ「遺体を引き取りに来るように」との連絡が入った。しかし来院した祖母が胸に耳を当てたところ、鼓動が聞こえる。病院側に伝え、再治療が施された。

 「思い出したくないし、話したくもない」。時間がたち、周囲が日常を取り戻しつつあっても、當眞さんは後遺症に悩まされた。「事故後、4年生になったが、字が書けないし読めない。幼稚園からの記憶も全然ない。五十音からやり直した」。友人らにはカンパチャー(はげ)と言われた。気にしないよう努めてきたが人前に出るのは恥ずかしかった。今でもおっくうだ。

 「基地あるが故に起きた事故だった」。一番仲の良かった友人も亡くした。今回話すことにしたのは、これまで口を閉ざしてきた人々の気持ちを代弁したかったからだという。「一日でも早く基地がなくなってほしい」。當眞さんはそう静かに語った。
 (砂川博範)

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 うるま市石川(旧石川市)の住宅地や宮森小学校に米軍ジェット機が墜落してから30日で60年がたつ。中には、今も葛藤を抱えながら生きる当事者もいる。今なぜ証言するのか。60年間葛藤してきたものとは何なのか。話を聞いた。









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