披露宴の変遷一冊に プログラム、時代反映も最後のカチャーシー不変 糸満市の古波倉正安さんが自伝発刊 口コミで評判広がり250組司会


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 【糸満】約250組の結婚披露宴の司会を務めた糸満市の古波倉正安(しょうあん)さん(79)がこのほど、披露宴のプログラムや地域活動などをまとめた自伝「私の宝物と(我が家の家宝)」を発刊した。20代の頃、同僚の依頼で引き受けた司会は、口コミで評判が広がった。「知っている人からのお願いは断れず、積み重なって250組になった」と、古波倉さんは妻の妙さん(76)と仲良くほほ笑む。沖縄の披露宴の変遷が分かる貴重な一冊だ。

司会を務めた披露宴などのプログラムをまとめた自伝「私の宝物と(我が家の家宝)」を手にする古波倉正安さん(左)と妻の妙さん=7月29日、糸満市内

 古波倉さんは、1977年以降の披露宴や生年祝いなどのプログラムを保管する。「私の宝物―」はA4判381ページ。プログラムや写真、表彰状、太鼓の徳八流妙の会会主を務める妙さんの活動など7項目でつづる。15部発行し家族に配った。

 郵便局員だった古波倉さんが司会を始めたきっかけは同僚の結婚披露宴の余興だ。高等弁務官役がおはこで「面白半分の英語でメッセージを読み上げた。大人気だった」と振り返る。「度胸がある」と同僚から強引に披露宴の司会を任された。当時はあまり司会がおらず口コミで依頼が増え、仕事の傍ら司会を務めた。

 昭和のプログラムには、高砂殿や糸満市文化会館など懐かしい会場名が並ぶ。新屋敷自治会館も会場だ。手書きが多い中、1979年ごろからワープロが増えた。97年ごろからは媒酌人を立てない披露宴、平成の半ばには子連れの披露宴が増えるなど、変遷が垣間見える。最後のカチャーシーは今も昔も変わらない。

 10月で80歳になる古波倉さんは数年前から地域の司会だけを引き受ける。「気が小さいから、ここまでになるとは自分でもびっくり。プログラムは財産。子や孫たちに自分の足跡を残したい」と穏やかに語った。

 (豊浜由紀子)