民謡歌手 大城琢さん 古い沖縄民謡を唄い続けるわけは… 藤井誠二の沖縄ひと物語(6)


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 沖縄民謡界のレジェンドといわれる大城美佐子さんの隣に立ち、掛け合うように叙情歌ナークニーを染々(しみじみ)と唄う民謡の歌い手を知っているだろうか。絹の声といわれる大城美佐子さんが信頼する大城琢さんだ。

 「美佐子先生が自分を隣で歌わしてくれるのは、コンビで歌う場合、女性が男性のキーに合わせると女性は無理な高音を出さなきゃならなくなるため、男性がキーを下げて女性に合わせることでバランスを良くする。自分は声を先生のキーまで下げて歌う。もう一つが、そのときの気分で先生がナークニーを唄っても、自分は即興で返せるようにしている。元々ある琉歌を基本にして、上の句や下の句だけオリジナルを入れたりしてね」

ハットをかぶり、三線を構える立ち姿に独特の風格が漂う民謡歌手の大城琢さん=3月20日、那覇市識名(ジャン松元撮影)

裏切れない

 ぼくと琢さんが知り合ったのは、大阪である。此花区四貫島(このはなくしかんじま)。下町のにおいが残る商店街の一角にある沖縄民謡酒場を目指していたが、ぼくは間違えて別の店に入ってしまった。客は誰もいない。だだっぴろい広間に三線(サンシン)が置かれ、合いの手を入れる太鼓があった。そこに着物を着込み、正座をしていたのが琢さんだった。ぼくは当時、風狂の歌人として知られる嘉手苅林昌(1999年没)にハマっていて、その名を出すと、嘉手苅さんを世に紹介した元祖ルポライター・竹中労の話まで広がった。

 琢さんは嘉手苅さんを積極的にライブで聴いていたし、「コンビ歌は美佐子に限る」とまで言っていた大城美佐子さんの弟子であること、唄について書かれた本を著者の出身、国籍、ジャンル問わずなんでも読み、歌詞をノートに書き出しては暗記し勝手に添削して遊んでいることを知った。琢さんは、ぼくは聴き取れない嘉手苅さんが好んで唄っていた民謡を演奏してくれた。「竹中労は思想は相いれませんが、美佐子先生から労さんの話を聞いて、入手できる本は全部読んだんです」

 私は店にしょっちゅう通うようになり、トランクケースと泡盛の一升瓶しかないパン屋の2階にある彼の部屋でもよく飲み交わすようになった。「今帰仁天底節」を酒瓶を前に淡々とひとりで唄っていたのを覚えている。四貫島の店には1年ほどいて沖縄に帰った後は、以前働いてた精肉卸し会社に戻り、大城美佐子さんの経営する那覇市東町の「島想い」で週3日だけ唄うようになった。

 店は観光客が多くなり始めていた頃だ。沖縄風ポップスのリクエストが続くなかで、琢さんは相変わらずあまり唄われることがなくなった、ゆっくりとしたテンポの古い民謡をやっていた。あるとき、集団でやってきた観光客が、誰もが知るポップスを琢さんに唄ってほしいと頼んだ。

 「すみませんね、知らんのです」

 そう琢さんは笑みを浮かべながら断ったのだ。観光客はあっけにとられた顔をしてそのまま帰ってしまった。

 「なんで流行りの沖縄風ポップスや新しい唄を歌わんで、自分が古い唄しか歌わないのか。マーケット的にもみんな同じことをしていたらいかんという思いもありますが、一人でも昔からの民謡を聴きたいという人がいたらそのお客さんを裏切れないんです。県内県外関係なしに、そんなお客さんは実は結構いるんです。流行り歌でも一応お客さんのリクエストだからたまには唄いますが、断ることが多いです」。そう言って琢さんは笑顔を浮かべた。

自分の唄

一般的な民謡歌手のイメージとは異なる場所で撮影がしたいと、識名霊園の坂道に笑顔で立つ大城琢さん=3月20日、那覇市識名(ジャン松元撮影)

 琢さんは子ども時代から床の間に立ててある叔父さんの三線を勝手に指で押さえて鳴らしていた。叔父さんはすでに亡いし、習ったりしたことも無い。ずっと耳コピで、工工四は20歳頃まで読めなかったし、読もうとも思っていなかった。 大城美佐子さんの経営する「島想い」に幼馴染みの友人に渋々連れられて行き―以前は違う場所にあった―美佐子さんに「なんか弾いてみなさい」と声をかけられた。

 「白雲節やれ」と酔った幼馴染みの宮里高広は大声で言った。唄を褒められた。飲みに行く回数が増え、「週末は弾けるようにしておきなさい」と言われるようになった。嬉しかったが不安もあった。

 「嘉手苅さんが唄ってるのをラジオやレコードで聴いて覚えました。外の唄者が出したレコードも聴きました。20年くらい前に、民謡歌手の先輩から、“お前は嘉手苅林昌じゃないんだから、自分の唄を唄ったほうがいい”と言われた。自分は嘉手苅さんの真似をしたことはないですが、何故かそう言われてましたよ。いまは嘉手苅さんみたいだ、という人はいません。してやったりです」

 島唄がブームになったとき、「三線一本持った民謡歌手がこぞってやりはじめたのを見てセンス悪いと思った。ブームの島唄を否定しているのではなく、島唄に乗っかって客呼びするステージ歌者達に対してです。若い世代や県外から観光で来る人がポップスを民謡だと思ってしまう。民謡歌手が自分で自分のクビをしめる結果になっている」と痛感した。

文学みたい

 那覇・栄町の居酒屋でちょっとしたライブを企てた。琢さんは三線一本。20人ほどを前に泡盛を飲みながら「ヨー加那よー」「白雲節」「恋語れ」「御國ことば」「ナークニー~山原汀間当」「移民小唄」「時代の流れ」「唐船ドーイ」など古い民謡を普段着のままで演奏した。高田渡の、「生活の柄」という山之口貘の詩をメロディにのせて歌ったのもアコースティックギターでやってくれた。

 「昔から歌だけで食えるとは思ってないし、それでは唄が分かるはずないと思っていた。生活に根ざしてこそ民謡。世の中は当たり前だけど理不尽なことも多いでしょ。そんな生活のなかで嫌な思いしたり、それを克服したりと、いろんな経験がないと唄の中に入り込めないと思う。沖縄風ポップスを否定はしない。りっぱな音楽と思っている。けど、三線人口は増えたが、民謡は減ったと思った。カチャーシーなど早弾きは、嬉(うれ)しさ楽しさの表現で自然発生するものだけど、観光客を躍らすためのものに変化してカチャーシーファシズムなる造語まで藤井さんが作ったではないですか」

 ぼくは無理やり踊らされるのが嫌でたまらない。沖縄民謡の魅力とは、とのぼくの質問に「民謡を続けているのは、音楽としてってのもあるけど、やっぱり歌詞です。昔の詞からその当時の世情や背景とかを味わうのが魅力。文学みたい」と答えた。一人になろうと店は数年前に辞めた。週に1回、近所の公民館で地域の人達に教えている。

(藤井誠二、ノンフィクションライター)

大城 琢​

 おおしろ・たく 1971年(昭和46年)、石垣島生まれ。3~4歳から那覇に住む。真和志高校卒。2002年頃から大城美佐子の店「島思い」でイレギュラーで唄い始める。翌03年夏から週2回レギュラーで唄い、16年3月まで続けた。多い時は週3回出ていた。師である大城美佐子のライブにも、県内外で出演している。15年、日比谷野音での琉球フェスティバルも大城美佐子の相方をこなした。

 ふじい・せいじ 愛知県生まれ。ノンフィクションライター。愛知淑徳大学非常勤講師。主な著書に「体罰はなぜなくならないのか」(幻冬舎新書)、「『少年A』被害者の慟哭」など多数。最新刊に「沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち」。