砲撃で家族失いたった一人に 激戦地テニアンで生き残る 当時3歳の安里清栄さん 記憶の奥底にとどめる母の姿


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テニアンの「沖縄の塔」に手を合わせ、戦争で犠牲になった両親と弟のみ霊を悼む安里清栄さん=28日、米自治領テニアン

 連日連夜、降り注ぐ弾丸の雨。米軍の攻撃で1944年7月7日にサイパンが陥落し、同月中旬ごろにはサイパン島からテニアン島への砲撃や艦砲、空爆が始まった。両親と弟は同じ防空壕にいながら、飛んできた砲弾の破片で亡くなった。当時3歳の安里清栄さん(78)=那覇市=だけが奇跡的に生き残った。

 壕の入り口にいた父は即死、弟も負傷し力尽きた。1歳の誕生日を迎えたばかりだった。安里さんも左足の薬指が切れ、左目の下に傷を負った。母は死の間際まで、懸命に安里さんを別の家族に託そうとした。しかし願いはかなわず、安里さんは取り残された。その後、米兵に壕から拾い出され孤児収容所に入れられたが、父の姉の家族と出会うことで幸いにして孤児になることは免れた。

 安里さんには、この時の記憶がない。収容所で伯母にたどたどしくも経緯を説明し、後日伯母から改めて聞いた話を覚えているという。「母は私の目の前で、私の行く末を案じながら息を引き取ったと思う」と奥底に眠る記憶をたどった。

 山中で別れた伯母家族は一家全員が生き残った。戦後、祖父に引き取られながらも伯母に面倒を見てもらった。安里さんは「一緒に逃げることができなかったことに、私への申し訳ない気持ちと後悔の念があったのだろう」と振り返った。

 帰還後、勉学に励んだ安里さんは公認会計士となり事務所を構えた。取引先の決算期と重なることが多く、ほとんど慰霊祭に来ることができなかった。時期がずれたこともあり、昨年に続き今回も参加できた。

 今年は初めて伯母の子どもに当たるいとこたちも同行してくれた。ただ伯母の長女だけは壮絶な体験から拒否した。安里さんは「伯母も来ようとはしなかった。それほどにつらい場所でもある」と戦争の悲惨さを嘆いた。

 家族をテニアンで失い戦後、苦労を重ねてきた安里さん。それでも諦めずに前へ進んで今の職に就き、2009年に戦争体験や戦後の歩みをまとめた自伝「清ちゃん あきらめるの」を出版した。「死んだ母にいつも言われている気がしていた」と表題を決めた。

 慰霊祭を訪れ、改めてテニアンが出発基地となった原爆問題や世界の軍拡の情勢に気をもむ。「危うい時代になっていないか。争いは決して何も生まない。軍に頼らない平和の道を探り続けてほしい」。次の世代が諦めないことを願いながら、平和の思いを託した。

(謝花史哲)