宮里朝光さんを悼む 沖縄語普及協議会顧問の宮良信詳さん


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
しまくとぅばをテーマにしたフォーラムで発言する宮里朝光さん=2011年9月、那覇市泉崎の琉球新報ホール

 宮里朝光先生の突然の訃報に驚いている。告別式に参列し、ご冥福を祈った。

 宮里先生とは2000年に発足させた沖縄語普及協議会の設立準備の段階から一緒に活動してきた。教員出身なので、顔が広い。事業をする時に私たちが協力を依頼する書類を作ったら宮里先生がその書類を持って、県内の大手企業からも広く寄付金を集めていた。

 宮里先生は、うちなーぐちや琉球の歴史に非常に詳しい。物事に対する自分の主義主張については、譲らず頑固一徹なところがあった。特に言葉に対して的確で、厳密だった。

 例えば、首里城正殿は、昔の人から御百浦添御殿(うむんだしーうどぅん)と呼ばれてきたはずなのに、なぜ必ず日本語に言い換え、和名を付ける必要があるのかと指摘していた。そうしたことについて、ちゃんと自分のご意見を持っていた。

 言葉だけではなく、幅広く沖縄の文化に対する造詣が深い。国立劇場おきなわの出演者の衣装について、日本風の着付けになっていたのを「けしからん」と指摘していたこともある。昔の生活で使った道具、衣装などについて、いろんなことをご存じだった。

 歴史書の「球陽」などもちゃんと頭に入っている。昔の人たちの暮らしの中で、暦がどう生かされていたのかなど、細かいことも知っている。すごいなと思う。私も目を開かされた。

 宮里先生が指摘していたように、名所、旧跡、歴史的な建造物など、本来の名称や意味を表すものにするべきではないかと思う。先生が指摘していた見方、考え方を踏まえ、私なりに言語学の立場からうちなーぐち普及など、できることを取り組んでいきたい。
 (談、宮良信詳 沖縄語普及協議会顧問)