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<メディア時評・京アニ放火事件の報道>報道界で基準作りを 公権力の情報統制、要注意


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 7月に発生した京都アニメーション放火事件に際して、犠牲者の遺族の多くは取材・報道を拒否する意向を示したとされ、実際に行われた犠牲者の実名報道に対しては、ネットを中心に新聞・テレビに対する強い批判や抗議が寄せられている。メディアの姿勢は、全く市民社会の共感を得られていないということだ。まさに、報道機関の大切にしてきた「事実報道」が否定されているともいえるわけで、ジャーナリズム活動にとっては根が深い問題であるだけに、改めて被害者氏名の扱いを通して報道のあり方を考えてみたい。

線引きの難しさ

 当該事案は、表現の自由に関わる法制度上の問題と、ジャーナリズム倫理の問題を区別して考えることが必要だ。被害者の気持ちを慮(おもんばか)り、取材や報道は控えるべきというのは後者の話である一方、警察が被害者情報を発表しないことは、公権力による情報操作の一環で取材・報道の自由を侵害する可能性が高く前者の話だからだ。

 やみくもに被害者のプライバシーを晒(さら)すような報道が許されないことは当然だ。気持ちの整理がつかない遺族に押しかけるような取材も、いまや許されまい。ただしあえていえば、報道されれば被報道者にとってなにがしかの権利侵害が生まれることは、むしろ報道の普遍的な実態でもある。それでもなおジャーナリズムが社会にとって必要とされてきたのは、公共性・公益性を優先させて事実を明らかにすることに、取材・報道の意義と価値があるとの社会的合意があったからだ。

 こうした基本的な考え方に則(のっと)って、取材・報道するにあたっては当事者の許可をとることを必要条件とはしてこなかったし、明確な線引きによって被害者を含め特別扱いをする対象を決めることも難しい。

 実際、大規模自然災害の場合の犠牲者や身元不明者も含めた安否情報は、全国知事会レベルで実名発表が要望されるなど、むしろ積極的報道することが期待されている。また、日常的な自動車事故や火災などでの犠牲者に際し、匿名化の議論は一般に起きていない。

 ただし「初めに実名ありき」ではなく、遺族や関係者の意向を配慮することは、これまでも報道界としてやってきたし、今後より一層慎重な対応が求められてはいる。それは、インターネット時代の中で、個人情報が独り歩きし悪用される可能性が高まっている状況があり、そのきっかけに新聞等のマスメディアの報道が利用されることもありうるからだ。

 しかも(当局の)発表と(メディアの)報道の峻別(しゅんべつ)という原則が、実際には成立していないのではないかとの批判も強い。

 すなわち、氏名を知ったメディアは報道意義をきちんと判断することなしに、ほぼ反射的に当事者に対し取材に押しかけ、実名で報ずる実態があるということだ。

 その結果、発表する当局側が個人情報の取り扱いにより慎重になっている側面があるのだろう。ましてや、被害者の情報についてはなおさらであって、こうした状況を報道側が真摯に受け止めることが必要だ。

 報道の必要性や意義を納得してもらうためには、日々の取材や報道の積み重ねの中で理解を深めることが大切で、それは社会全体に対してと同様、公的機関に対しても言える。

 一方で、匿名社会が広がることは、市民一人ひとりが社会の出来事に無関心になり、のっぺらぼうで個が大切されない社会にも繋(つな)がりうるのであって、より大きな社会のあり方を問うてもいる。

すり替え

 一方で、行政が世の中に流通する情報の善し悪しを判断し、好ましくないと思った情報は非公開にすることには、十分な注意が必要だ。今回の犠牲者情報の非公開も、遺族に寄り添い守るための対応と言われ、それを当然視する流れが強いが、そこには巧妙なすり替えがありはしないか。とりわけ犯罪被害者等基本法および同基本計画の制定ののち、被害者氏名の公表が抑制的になる傾向がある。さらに行政機関個人情報保護法の改正もその傾向を強める作用がある。

 こうした流れの延長線上で今回、警察が取材・報道に対し仔細(しさい)な条件を付したり、情報開示のタイミングを一方的に決めたわけだ。京都府警は、被害者に寄り添う姿勢を示したということであろうが、これが警察の正当な業務として一般化することには問題がある。現場の警察の恣意的な判断によって被害者対応が異なり、その結果として警察発表時の実名か匿名が分かれ、しかも取材の条件を警察が指示をするという事態が生まれているからである。

 こうした公権力による社会に流通する情報をコントロールすることは、恣意性の挟む余地がないように、厳格に運用される必要がある。あくまで公的機関は職務上知り得た情報を原則、可能な限り速やかに開示する、すなわち犠牲者の氏名を実名で発表するルールを社会で維持する必要があるということだ。

 そして、制度上求められている被害者および関係者を保護するための対策組織は、すでに海外で実践されているように、捜査機関等の公権力とは一線を画したソーシャルワーカーなどの専門職によって構成された組織で行うべきである。警察が当事者との調整を直接担い、公表を止めるような行為は結果として社会全体で共有すべき情報を覆い隠すことになり好ましくない。

歯止め

 逆に言えば、もし警察が仲介役を行うのであれば、被害者家族のケアをする中で、報道発表に関しては個人情報を開示することを伝達するか、もしくは取材・報道対応マニュアルを手渡すことに限定すべきだろう。ここにいうマニュアル(ハンドブック)は、むしろ報道界が共同して早急に作成し社会全体の合意を得る必要があって、公権力が一方的に定めるものであってはならない。

 ここで重要なのは、米国を含む多くの国では逮捕や起訴を含む公権力行使に関わる情報が開示されている点である。これらに比して日本の場合は、自主規制もそれなりに強力で、司法による名誉・プライバシー侵害の訴訟も一定程度提起しやすく、行政・司法情報の開示は極めて遅れており、さらに法令上でも取材や報道に制約的な制度が組み込まれている。したがって、ややもすると取材や報道が全体として抑制されやすい環境があるだけに、とりわけ警察をはじめとする公的機関が、前面に立って情報コントロールすることには十分な注意が必要で、明確な歯止めを設ける必要がある。

(山田健太、専修大学教授・言論法)