「ピンクドット沖縄」元共同代表 宮城由香さん 県内で初めてレズビアンだとカミングアウトした訳とは 社会の固定観念に抱く強烈な違和感 藤井誠二の沖縄ひと物語(7)


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「幼い頃、父やきょうだいと一緒に遊びに来た」カーミージーの海岸で笑顔の宮城由香さん(右)。炎天下の撮影中、長年連れ添う「家族」の小渡真由美さんが日傘で暑さを和らげた=1日、浦添市(ジャン松元撮影)

 性的マイノリティを自認してきた宮城由香さんにとって、社会への違和感はずっとつきまとった。小学生へ上がる前から、「自分は違う」と思っていた。成人すると、祖母や母から「誰々は結婚したけど、あんたはまだ?」と催促されたり、子どもだけでも産むといいと言われたこともあった。その都度、話題を逸(そ)らして凌(しの)いできた。

 「沖縄戦で祖父や息子たちが死んでしまって、家を継ぐ者がいないわけ。戦後、祖母と娘(母)が残されて、親戚から婿をもらうみたいなかたちで父が家を継いだ。それで生まれたのが私。祖母や母の気持ちはわかるけど、私は家というものを存続しなきゃいけないのは煩わしいし、自分の中であり得なかった」

パートナー

 そう宮城さんは白い歯を見せ、そんなことはたくさんありましたよ、と語った。30歳のときに急性腎不全で緊急入院したことがあった。緊急透析治療を行う必要が生じ、本人以外が説明を受けてサインをするとき、病院の医師の態度を理解しかねたことがあった。パートナーの小渡真由美さんと付き合っていたから、宮城さんのことを一番良くわかっていた。だから入院のサインをしてもらおうと思い、宮城さんは小渡さんを指名した。

 「でも、医師はできたら男の親族、つまりは夫か父親とすることを慣例としていて、独身で父親がいるなら父親を呼んでサインしてほしいと言われたんです。ミソジニー(女性蔑視)を感じました。私はおかしいと思いながらも、けっきょく父親を呼びサインしてもらいました。この医師とは意思疎通できないと判断して転院しました」

 そして、「同性パートナーのことを説明するのは、勇気がいるのです。わかってもらうことも」と宮城さんと付け加えた。

 宮城さんの横には、パートナーで一緒に暮らしている小渡真由美さんが座って、宮城さんがぼくに何か言うたびに微笑みを絶やさないで頷(うなず)いている。小渡さんをあえてカテゴリー分けするとバイセクシャルということになるが、宮城さんは「私は自分のセクシュアリティは同性愛という自認があるけど、真由美さんは、いわゆるフツーの人だった。でも、私が好きだということを受けとめてくれて、断られるかもと思ったけど、びっくりした」。

 当時は埋没して生きていた、という言い方を宮城さんはする。それまで性的マイノリティのグループに入っていなかったし、ましてやカミングアウトもしていなかったという意味合いだ。

カミングアウト

自宅の階段や屋上で草花を栽培する宮城由香さん。「植物から学ぶ事は多い」=1日、宜野湾市内(ジャン松元撮影)

 ところが、沖縄出身の砂川秀樹さん(文化人類学者)と知り合ってから一変する。砂川さんは沖縄出身で、実行委員長として「東京レズビアン&ゲイパレード2000」に参加、「東京プライドパレード」の代表に就任したこともある。砂川さんが一時的に沖縄に戻ることがきっかけになり、宮城さんの「違和感」がかたちになった。

 2013年、日本では初の「ピンクドット」を沖縄で開催、それを機に沖縄で初めてレズビアンであることを公言した。「私は私、でじゅうぶんだと思ったけど、LGBTが押しつけられている無理解や問題を明確にするために、同性愛者だということをカミングアウトした」と振り返った。

 伝統文化はときとして「常識」を押しつける傾向がある。沖縄の方言を広げようという「シマクトゥバ」運動もそうだった。伝統の大事さは宮城さんは理解できるが、ジェンダー差別を含んでいることに違和感を隠さない。「だって、男言葉はハイサイ、女言葉はハイタイ。ジェンダーを二極化・固定化され、社会がそれを信じて疑わないことに拒絶感があるんです」とぼくに語った。

 「私には、甥(おい)と姪(めい)がいるんですが、シマクトゥバ運動のおかげで沖縄の伝え継がれてきたことに興味を持っていて、幼いながらにその価値観や、役割を踏襲しようとしているように感じるときがあります。あぶなっかしいと感じるときも多い。沖縄ンチュだから~、何処(どこ)の人だから~とか、出身や、性別で差別するような発言が見えるときには注意しないと。私の役目ですかね」

好きな相手を選ぶ

 宮城さんと小渡さんと浦添唯一の天然ビーチ「カーミージー」を歩いた。宮城さんが幼いときから「海といえばここ」というほど遊んだ場所だ。小渡さんが、「社会は性別などをカテゴリー分けするけど、私は由香さんとだから暮らしているんです。私は私の好きな相手を選ぶ。ただそれだけです」と言った。そうしたら宮城さんも「家族ってこうあるべきという固定観念はおかしいと思う。当たり前に社会は家族ってイメージを語るけど、一方でそれに苦しむ人もいることを忘れてほしくないよね」と相槌(あいづち)を打った。

 親には「ピンクドット沖縄」を報じる新聞記事で「正式」に伝えた。新聞に載ったこともあり、「かあちゃんはうれしいさ、あんたが幸せで頑張っているなら私はうれしいさ」。祖母はすでに亡いが、「ピンクドット」を始めてから小渡さんと二人で見舞いに行ったとき、「あんたたちはミートゥンダ(夫婦)だね」と声をかけてくれた。

 「私達には子供はいませんが、性的少数者の価値や意識を伝えていく役目があると思っています。女性同士で生活している私達を傍(そば)で見て育つ私の甥と姪らは、ピンクドットや、他のゲイの人たちにも会っています。だからいろんな人がいて、いろんなかたちの家族がいることを見て学んでいるでしょう」

(藤井誠二、ノンフィクションライター)

みやぎ・ゆか​

 1971年浦添市生まれ。2011年、砂川秀樹さんと共にLGBT活動を開始。同年11月、那覇市うないフェスティバルにてドキュメンタリー映画「ハーヴェイ・ミルク」の上映&トークを行う。13年、国内初のオープンなLGBTイベント「ピンクドット沖縄」開催。16年まで共同代表を務めた。務めている間で、那覇市レインボー宣言、パートナーシップ制度を確立できた。パートナーとの生活は22年になる。

 ふじい・せいじ 愛知県生まれ。ノンフィクションライター。愛知淑徳大学非常勤講師。主な著書に「体罰はなぜなくならないのか」(幻冬舎新書)、「『少年A』被害者の慟哭」など多数。最新刊に「沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち」。