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<第55回女性の主張中央大会>2 県教育長賞 津嘉山 千代 (宮古地区婦人連合会) 80歳の青春


<第55回女性の主張中央大会>2 県教育長賞 津嘉山 千代 (宮古地区婦人連合会) 80歳の青春 県教育長賞・津嘉山千代
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 20年前、那覇から宮古島に引っ越して、そろばん塾と農家民宿を始めました。農家民宿と名前を付けたのはお客さんと一緒に農業体験をし、収穫したばかりのゴーヤーでチャンプルーを作ったことが一番人気があったからです。お客さんと夫が取ってきた魚を満天の星の下で泡盛と一緒に頂く、歌あり踊りありの楽しいひとときです。
 そんな楽しい日々を過ごしている時、急に吐血し救急車で病院に運ばれて診察の結果「肺の末期がんです」と伝えられて「どこまで生きられるんですか」と聞くと、医者は「手術して抗がん剤を使いましょう」と言われました。抗がん剤と聞いた途端に、絶対に手術しないと決め、翌日から「死」への準備です。80年間大切にしてきた全てをちり箱へ捨てました。タンスの中に残ったのは死ぬ時、着る1枚の着物だけでした。
 その時、友人が手渡してくれた1冊の『ガンへの対策』という本で救われました。薬に頼らない徹底した「食」で、がんが消えたという内容で書かれていました。一番うれしかったのは「人間の細胞は3カ月で変わる、自分で作った病気は自分で治す」でした。よし、3カ月にかけよう、徹底した食事療法を始めました。
 甘いものは絶対ダメ、家で取った皮付きニンジン、皮付きりんごジュースを毎日飲む、体温は36・5度以上を保つこと、卵は1日2個を取る、自分でできることを毎日努力しました。
 さて、待ちに待った3カ月です。先生が肺のエックス線写真を見せてくれました。3カ月前の写真にあった黒くて恐ろしい物体はありません。私はがんを克服しました。がんに勝ちました。「食」は私を助けてくれた一番の友であり、薬です。
 日々元気になり婦人会活動を始めました。婦人会長として那覇の研修会に参加しました。食についての講演です。「昔から地域で食べられてきた郷土料理はスローフードといわれ、それが消えつつあるので、守らなければならない」との講話でした。私が郷土の食材で作ってきた料理のことがスローフードであることを始めて知り感動しました。
 新しいことを発見した私は研修を終えて早速、「スローフードの宿」と看板を立て替えました。宿泊した皆さんと一緒にキビ刈り体験、豆腐作り、時には追い込み漁に連れて行き、収穫したばかりの新鮮な魚をさばき刺し身にして一緒食にべて、共に喜びを分かち合いました。すると、なんと1年間に5千人のお客さん、農家民宿として認められて「全国1位」に輝き、表彰を受けました。
 これまで以上にスローフードに興味を持ち、「スローフード研究会」を設立。設立の目的は健康な食事によって身も心も健康になる。宮古の食材はスローフードに適している、旬の野菜を使った料理教室はひと月1回の割で開催し、人数は約30人、野原で取れた薬草、ヨモギ、桑の葉などを食材として6品か8品作り、食を通して会話に花が咲き、「わが家から化学調味料が消えました」という声を聞きます。食材は地域に転がるようにあって、いくらでも健康食が出来上がると思っています。
 そんな時、昨年10月、「イタリアに行きませんか」。葬儀の準備までしていた私がイタリアに元気で行けるということが一番うれしかったです。天から降ってきたような話です。イタリアまでの10日間、旅は長くて遠かったです。2年に1度、トリノで行われる「食の祭典」です。「食文化を守る」団体としてスローフード運動は世界83カ国に広がり、今では8万人に近い会員数です。私の役割は沖縄代表として料理を作ることでした。宮古上布を着て、宮古島の郷土料理、黒アズキ、コンブ、パパイアをオリーブで炒めたものを蒸して柔らかくする。キビナゴとみそで味を付けたシンプルな料理でした。「おいしい、おいしい」と食べている姿を見てうれしかったです。イタリアで食の大切さを再認識しました。
 イタリアから帰った後、スローフードの仲間たちに正しいことを伝えたいとの思いで「健康食コーディネーター」の資格を取得しました。イタリアでの「食の祭典」に参加して学んだことを伝えることが使命だと思います。まだまだやりたいことがいっぱいです。コーラス入部、三線練習、来年は再びイタリアの「食の祭典」に参加します。80歳の青春がまだ続きます。