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欧州統合の飛躍に貢献/評伝


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 1984年、フランスのミッテラン大統領が内閣改造で、順当に閣内の実力者を首相に任命していたら、欧州単一通貨ユーロ誕生はなかったかもしれない。ドロール財務経済相の影響力を恐れた大統領は若手を首相に任命、ドロール氏は「第2希望」だった欧州共同体(EC、後の欧州連合=EU)の委員長に転出した。後年「ユーロの父」と呼ばれ、欧州統合を飛躍的に進めたと評価されるドロール委員長の歩みは、この「失意」から始まった。
 85年、当時のECは停滞の時代にあった。ドロール委員長はそこに信念である「欧州連邦」の夢を吹き込み、卓越した構想力と交渉術で統合欧州建設を加速した。
 就任後直ちに、欧州市場統合を定めた単一欧州議定書を成立させたドロール委員長は、次の目標として通貨統合と政治統合を設定。通貨統合への警戒感が支配的な中で、ドロール氏はどうすれば単一通貨は誕生可能かという論点に絞り、89年4月に報告書を発表。このドロール報告が3段階での単一通貨ユーロ誕生への青写真となった。
 ドロール委員長が優れていたのは、報告書から「単一通貨は望ましいかどうか」という政治的問題を一切除外した点だ。このため、反対派の英国をはじめ多くの国の金融専門家が「車のデザインを頼まれた技術者のような気持ち」(イタリア銀行幹部)で、報告書の作成に全力を挙げた。
 ユーロ誕生時のインタビューで「欧州指導者の中で通貨統合に最も貢献したのは誰か」と問われ、ドロール氏は「ヘルムート・コール(元ドイツ首相)だ」と即答した。
 89年、ベルリンの壁崩壊を機に各国指導者が「大ドイツ」誕生への警戒感を隠せない中で、ドロール氏はドイツ統一への積極的な支持を表明。このとき培われたコール首相との信頼関係が、当時の欧州最強通貨マルクを有し通貨統合実現の鍵を握っていたドイツを単一通貨に合流させる伏線となった。
 ドロール氏はまた「フランス大統領の座を蹴った男」としても記憶されるだろう。
 95年の大統領選前にEU委員長を退任したドロール氏は、ミッテラン大統領の後継者と目され、好感度もトップ。保守がシラク、バラデュール両陣営に分裂していたこともあり、大統領選の最有力候補とみなされていたが、出馬を辞退、有権者を驚かせた。
 この時の心境をドロール氏はこう説明した。
 「私はパリをずっと留守にしていた。(大統領選で)当選の可能性はあったかもしれないが、自分の信じる道を実現しようとしても、多数派の支持は得られないだろうと感じた。だから別の道に進んだ」
 その後は政治と距離を置き、シンクタンクの所長などとして欧州統合を側面支援した。権力にしがみつき、地位にきゅうきゅうとする指導者ばかりが目につく中で、ドロール氏は希有(けう)の存在だった。(共同通信編集委員・軍司泰史)