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広島で被爆「戦争二度と」 徳之島の田袋吉三さん(96) 島の防衛強化 思い複雑


広島で被爆「戦争二度と」 徳之島の田袋吉三さん(96) 島の防衛強化 思い複雑 「自衛隊統合演習」の一環で、鹿児島県の徳之島空港で「タッチアンドゴー」を実施する航空自衛隊のF15戦闘機=13日
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 鹿児島県奄美群島・徳之島の田袋吉三さん(96)は、勤務していた広島市の造船所で原爆に遭った。帰郷し、米施政権下に置かれた古里で復帰運動に携わった。中国が海洋進出を強める昨今の状況を背景に、日本政府は南西諸島の防衛力強化を図る。「二度と戦争はしたくない。平和的解決に向けて努力を」との思いを持ち続ける一方、有事への備えもやむを得ないと考える。
 尋常高等小学校を卒業後、造船の仕事に就いた。長崎で3年ほど働き広島に移った。戦況が悪化していた1945年には人間魚雷「回天」の製造にも当たるように。1日数時間の睡眠で働いた。
 8月6日朝。爆心地から約5キロ離れた工場で仕事を始める直前、突然ピカーッと光が走った。空は真っ赤に染まり、入道雲のようなものが上がっていた。動員学徒たちと防空壕(ごう)に入ろうとすると、瓦が吹き飛んでくるのが見え、とっさに近くのくぼみに伏せた。「これで最期か」。当時18歳。親の顔や思い出が脳裏に浮かんだ。
 しばらくして周囲を見渡すと、市中心部で火の手が上がっていた。夕方、近くの川で目にしたのは焼けただれた死体の数々。生存者が運ばれた野戦病院で1週間ほど手伝いをした。「『もう殺してくれ』と言う人もいた。どんなに痛かっただろう」。かける言葉が見つからなかった。
 落ちたのが原爆だと知ったのは約1週間後。20年は街に住めなくなると聞き、10月ごろに島へ戻った。「何十万人が亡くなった。よく生き残ったなと思う」と振り返る。
 米施政権下の郷里で集落の青年団を結成し、広報活動や断食祈願を通して日本復帰を求めた。本土と行き来が制限され「食料不足に陥り、統治下にあるという精神的苦痛も感じていた。祖国復帰は市民の悲願だった」。奄美群島は53年に復帰。田袋さんは98年まで徳之島町議を5期務めた。
 近年、中国の軍事活動が活発化し、政府は自衛隊の「南西シフト」を加速。これを追い風に、島内3町では官民で自衛隊誘致を進めている。
 今月、自衛隊と米軍の統合演習の一環で、民間の徳之島空港でも空自の戦闘機が訓練した。「世界情勢を見ていると、いつ島がやられるかわからない。外交努力に加えて、防衛体制の整備も必要ではないか」。言葉を選びながら、そう話した。