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78年経ても帰らぬ土地/沖縄戦講座/普天間飛行場周辺巡る


78年経ても帰らぬ土地/沖縄戦講座/普天間飛行場周辺巡る 米軍普天間飛行場のフェンス前で説明する仲村真さん(左奥)=9日、宜野湾市の市道11号線沿い
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 「沖縄戦の記憶継承プロジェクト―戦争をしない/させないために」(同プロジェクト実行委員会主催)の第3回講座のフィールドワークが9日、宜野湾市で開かれた。県平和祈念資料館友の会事務局長の仲村真さんが、米軍普天間飛行場のフェンス沿いを巡りながら沖縄戦や基地問題について説明した。約30人が参加した。
 仲村さんは、同飛行場の成り立ちについて、米軍が沖縄戦の最中に本土決戦に備えて建設したが、戦後は米軍の世界戦略の中に位置づけられていったことを説明した。
 宜野湾区公民館では、元宜野湾郷友会長の宮城政一さんが、現在の飛行場内にあった宜野湾集落について講話した。戦前の宜野湾集落出身で沖縄戦体験者の玉那覇祐正さん(90)、玉那覇秀子さん(88)、宮城園子さん(88)、玉那覇昇さん(87)も体験を話した。
 玉那覇秀子さんは、集落内のメーンサクガマから島尻方面に逃げる途中、嘉数の戦闘に巻き込まれ右腕を負傷した。その後、米軍に捕らえられ治療を受けたが、右手を切断した。「長いこと包帯で隠していた。9歳までは腕は両方あったんだよ」と語った。
 当時8歳の玉那覇昇さんは戦後、集落が米軍に接収され帰れなかった様子を覚えているという。「帰る所がなく、(元の集落の)周辺に住むことになった。ゼロからの村づくりで、水も食べ物もなく大変だった」と語った。
 そのほか「沖縄戦の図」が展示されている佐喜真美術館や沖縄戦中に宜野湾集落の住民が避難したクマヤ洞穴、沖縄国際大学の米軍ヘリ墜落現場のモニュメントも訪れた。 (玉寄光太)