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疎開生活の過酷さ学ぶ 沖縄の児童ら 宮崎訪問、粗食体験も 宮崎日日新聞提供


疎開生活の過酷さ学ぶ 沖縄の児童ら 宮崎訪問、粗食体験も 宮崎日日新聞提供
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 太平洋戦争中の学童疎開を追体験しようと、沖縄県の小学5、6年生10人が親元を離れ、27日から2泊3日の日程で当時の疎開先だったえびの市や宮崎市を巡っている。疎開者の過酷な生活を語り部から学び、当時の粗食も味わった児童たちは「知らない場所で生きるのは本当に大変だったはず。自分なら耐えられない」と実感。平和の尊さをあらためてかみしめた。
 1944(昭和19)年8月22日、米潜水艦の攻撃を受け1484人が犠牲となった学童疎開船「対馬丸」の継承に取り組む対馬丸記念会(那覇市)が主催。
 初日は対馬丸の生存者が身を寄せたえびの市を訪ねた。市歴史民俗資料館で、市史談会の上谷川則男さん(72)=同市栗下=が疎開生活を送った男性の体験談などを紹介。白鳥温泉下湯では当時の食事を再現した大根飯やみそ汁などの「やーさん(沖縄の方言でひもじい)飯」を味わった。那覇市・天妃小5年の仲宗根愛美(かなみ)さん(11)は「質素だけどおいしい。でも当時は物足りなかったと思う。寂しい気持ちにもなった」と話した。
 その後、戦中や戦後に疎開などで約300世帯が移住したことから「リトル沖縄」と呼ばれる宮崎市波島地区を訪れ、宮崎東小の児童4人と交流。公民館の壁に記されている建設費寄付者の名前から「大城」「新垣」など沖縄由来の名字を見つけ出した後、同市の語り部グループ「南の風」代表の常盤泰代さん(57)の説明を受けた。
 常盤さんは「疎開者は貧しく、偏見を受け、生きるのに必死だった」と「闇焼酎」の製造や焼酎かすを餌として利用した養豚で生計を立てていた歴史を紹介。厳しい生活を強いられながらも「地元の誇りを忘れず、三線やエイサーなどの文化を守り、生き抜いてきた」と語った。
 宜野湾市・大謝名小5年の與那覇朝惟(ともい)君(11)は「古里を離れ、慣れない環境で暮らす苦労が分かった。自分なら耐えられないかもしれない」、宮崎東小5年の坂元太一君(11)は「疎開者が必死に生きてきた地元の歴史を沖縄の子どもと学べ、良い一日になった」と話していた。
 (高橋良太、菅野健太)