有料

「戦争二度と」思い、次世代へ 2018年「最後の墓参団」後も続く月1回の集い 沖縄パラオ友の会 


「戦争二度と」思い、次世代へ 2018年「最後の墓参団」後も続く月1回の集い 沖縄パラオ友の会  パラオでの思い出を共有する前田裕子さん(左)と林寛之助さん(右)=13日、那覇市
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

「沖縄パラオ友の会」(田中順一会長)は、最後の慰霊墓参団が終わった今も月に1回ほど集まり、親睦や交流を続けている。子や孫の世代も参加し、戦争体験や戦前の思い出を共有する貴重な場となっている。

 「あなたはコロール4丁目? 私は6丁目だったのよ」―。13日に開かれた沖縄パラオ友の会の定例会で当時の思い出を語り合っていた前田裕子(ひろこ)さん(94)=那覇市=は、大宜味国民学校を卒業後、父親を追って母と妹と一緒にパラオに向かった。1944年半ばごろ、パラオ高等女学校3年の時に、同級生とパラオ本島(バベルダオブ島)の密林の中にあった野戦病院に動員され、兵士の看護に当たった。
やせこけた日本兵が運ばれてきては毎日亡くなっていった。餓死だった。前田さんらは4人がかりで遺体を運び、埋葬した。「またか、というくらい」。死に対する感覚がまひしていた。

 病院で終戦の「玉音放送」を聞き、45年9月に動員が解かれた。密林の別の場所に避難していた母親のもとに悪路の中を急いだ。しかし、母親の死に間に合わなかった。栄養失調だった。
母親の遺体を火葬し、遺骨を抱いて46年3月に父親と妹と沖縄に引き揚げた。パラオの地を再び踏んだのは2015年。86歳で慰霊墓参団に参加し約70年ぶりに訪れた。「土を踏んだとたん、涙があふれた」。戦前の自宅の跡、野戦部隊があった場所…。思い出をたどり歩いた。「もう1回行きたいと思うけれど、もう無理ね。現地の同級生もほとんどいない」

 しかし、13日の定例会でうれしいできごとがあった。戦前パラオに住んでいた林寛之助(かんのすけ)さん(92)=うるま市=を通し、共通の知り合いで林さんがつながっていた高等女学校の同級生と電話で36年ぶりに会話ができた。
林さんの両親は大分県出身。林さんはパラオのコロール4丁目で生まれた。パラオ中学3年の時に飛行場建設に動員された。1944年3月30日、朝食を先輩や同級生ととっている時に突然、「バババーッ」と激しい空襲に襲われた。左右に座っていた先輩は即死。うち1人は沖縄出身の「玉那覇先輩」だった。

 同級生の呼びかけで意識を取り戻した。立とうとしても立てず、左の膝頭から血が噴き出した。ゲートルで止血し、ジャングルの中に逃げ込んで失神。3日かけて同級生や先輩が野戦病院に連れて行ってくれ、一命を取り留めた。
「今も痛む」と足をさする。「戦争からもう78年。元気な先輩たちも亡くなってね」。若い世代に伝えたい思いは一つ。「とにかく戦争はいけません」と語気を強める。会のメンバーは高齢になり、現地に行けなくなってもパラオへの思いは尽きない。過酷な戦争体験の記憶は生々しく、多くの若い人に歴史を知ってほしいと願っている。

(中村万里子)