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竹入義勝さん死去 元公明委員長、日中橋渡し


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 公明党委員長を約20年間務めた竹入義勝(たけいり・よしかつ)氏が23日、肺炎のため福岡市の病院で死去した。97歳。長野県出身。葬儀・告別式は近親者で執り行った。喪主は長男正彦(まさひこ)氏。委員長在任中は現実路線を強め、福祉政策を中心に国民政党への脱皮を図るとともに、日中国交正常化の橋渡し役も果たした。
 旧国鉄職員や東京都議などを経て公明が衆院に進出した1967年衆院選で旧東京10区から初当選した。同年に41歳で第3代委員長に就き、矢野絢也書記長と86年まで約20年間にわたり「竹入―矢野」体制を構築した。
 70年の党大会で「人間性尊重の中道主義を貫く国民政党」と基本理念を位置付け、政教分離の原則を順守する新綱領を採択。81年の党大会では、日米安全保障条約是認と自衛隊合憲に踏み切る新安保政策を発表した。
 72年の日中国交正常化交渉を巡り、中国を訪問して周恩来首相と会談。帰国後、田中角栄首相に「竹入メモ」と呼ばれる会談記録を渡し、日中共同声明の調印につなげた。
 86年、矢野氏と交代し、党最高顧問に就任。90年に政界を引退した。衆院当選は8回。引退後、回顧録を巡り、党や創価学会との関係が悪化。党は竹入氏が党の資金を着服したとして損害賠償を求め提訴したものの、2008年に和解した。