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三つの可能性 道州制論の時は一致 立場超え開かれた議論を 阿部藹<託されたバトン 再考・沖縄の自己決定権>13


三つの可能性 道州制論の時は一致 立場超え開かれた議論を 阿部藹<託されたバトン 再考・沖縄の自己決定権>13 辺野古埋め立ての賛否を問う県民投票の開票速報を受けて報道陣の取材に答える「辺野古」県民投票の会の元山仁士郎代表=2019年2月24日、那覇市の教育福祉会館
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 この連載は、2022年に2期目に入った玉城デニー知事が国連訪問に意欲を見せていることを受けて、15年に当時の翁長雄志知事が国連人権理事会で「沖縄の人々は自己決定権や人権をないがしろにされている」と述べた経緯や意義を振り返りながら、あらためて「沖縄の人々の自己決定権」を検証するために始まった。これまで1年にわたり、自己決定権の国際法上の発展に呼応する形で、琉球・沖縄の人々について、(1)植民地またはそれに類する地域の人民として、(2)先住民族として、そして(3)人民として、という自己決定権の三つの可能性を論じてきた。

 その議論をもとに私が主張してきたことをまとめると、米国による軍事統治と“返還”の過程を国連の諸文書に照らして考えれば、(1)の観点から少なくとも1972年に“返還”されるまで、沖縄(琉球)は外的な自己決定権、つまり独立する権利としての自己決定権を有していたと考えられるということ。そして、そのような権利を有していた人民であるという事実が、現在において沖縄の人々の人民として、あるいは先住民族としての内的な自己決定権の主張を補強するということ2)または(3)の可能性)だ。

 つまり、もともと琉球国として独立した国だったにもかかわらず日本に併合され、戦後、実質的に米国の軍事的植民地であったという歴史から、人民、あるいは先住民族として自己決定権を主張することには国際人権法の観点から正当性がある。そしてその自己決定権とは、社会的、文化的、経済的、政治的にどのような発展をするかを集団として決める権利である。

 明日2月24日で、名護市辺野古の埋め立てについて72%という圧倒的多数が「反対」の意思を示した県民投票からちょうど5年となる。残念ながら民意を示した県民投票の翌日も工事は継続し、昨年末にはとうとう国土交通相が「代執行」という強行的な手段まで使い、今年に入って軟弱地盤がある大浦湾側の工事も開始した。

 その背景には、沖縄県が「地盤の安定性の検討が不十分」であり「何が沖縄県民にとっての公益であるかの判断は国が押し付けるものでなく、沖縄県民が示す明確な民意こそが公益とされなければならない」として最後まで反対した設計変更について、国が代わりに承認することを認めたこの国の司法のお墨付きがある。

 故安倍晋三元首相や菅義偉前首相、そして歴代の国土交通相の発言からは、日本政府が1996年の日米合意を根拠に海を埋め立てて辺野古の新基地を造る、という非常に短期的な視野で眺めていることが伝わってくる。しかしこの辺野古の埋め立てをめぐる沖縄の人々の問題意識は、武力による併合を行った日本政府が敗戦後に軍事的植民地として沖縄をアメリカに差し出し、返還後もその構造を沖縄に強いてきた上で、沖縄の人々の反対の意思を踏みにじろうとするその姿勢にいかに対峙(たいじ)するか、という琉球・沖縄の歴史の延長線にあるのだと感じる。

 自らの土地や周辺海域をどう保全し、どう活用するか。それはまさに自分たちの社会の政治的、文化的、経済的、社会的発展を自らが決める権利と深く関わる。だからこそ、辺野古埋め立てについてNOという「民意」が反映されず、国によって強権的に工事が進められている現状は、9年前に翁長氏が指摘した「沖縄の人々の自己決定権の侵害」が続いていることにほかならない。

 玉城知事は昨年9月に国連訪問を果たしたが、自己決定権については「十分な議論ができていない」として触れるのを回避した。しかし、民意に反する工事が強行され、司法での救済も得られないという現状において、自己決定権に関する議論にしっかりと目を向ける必要があるのではないだろうか。

 自己決定権について、県議会では「先住民族だという誤った認識を広げる」という否定的な議論を繰り広げる会派「沖縄・自民党」の議員が少なくない。だが、2000年代初めに活発だった道州制の議論の中では、自民党の國場幸之助氏が「県民の民意や尊厳、自己決定権を求める心なくして日本の発展はあり得ない」などと述べるほど、自己決定権は“当たり前のもの”として保革を超えて認識されていた言葉だったのだ。

 腫れ物のように扱うのではなく、子どもたちや孫の世代にどんな沖縄を渡したいのか、そのバトンをつなぐためにあらゆる可能性を否定せず、立場を超えて開かれた議論が行われるべきだと考える。

 一方で、現在の沖縄の状況、そして日本政府の沖縄に対する扱いを見ていると、近年議論されるようになっている国際法上の「救済的分離」という理論が、今後沖縄に当てはまりうることもあるのではないかとさえ思えてくる。「救済的分離」とは、自己決定権のように確立した権利ではないが、主権国家の政府が国内の特定の集団を差別的に扱い、民主的な意思決定への参加を絶えず拒否し、これらの集団の権利を大規模に、組織的に踏みにじり、そして国家構造の中で平和的な解決の可能性が見い出せない場合に、そうした集団を救済する目的での分離であれば認められうるという説だ。

 次回は、沖縄の現状をこの「救済的分離」の観点から考察し、自己決定権に関する議論にどのように関わるのかを論じたい。

 (琉球大学客員研究員)
 (第4金曜掲載)