座喜味彪好さんとは、一緒に西銘順治知事に仕えた。「協力して西銘知事を支えて頑張っていこう」と話していた。
一風変わった人で、ともに副知事に就任する直前の1978年の大みそかに、紅白歌合戦を見ようとしていたら電話があって「話し合いたい」と言われた。紅白が見たいと言ったけれど、「そんなのはいいよ」と言われて。那覇市内のホテルで会って「トンカチ部門」と呼んでいたがハード面の土木建築や農林水産関係は座喜味さん、ソフト面の総務や教育などは私という形で協力していこうと話した。
仕事はまじめで頑張っていた。あまり他の人からの評価を気にすることなく、自分の意見、主張を通す人だった。米軍が支払う基地内の下水道料金が安く、値上げをしようとした時に「米軍が払わなかったら下水道を止める」と言っていた。ダメなものはダメだと言い切った。
宮古の出身だが名護市に引っ越して、ランを育てるのを楽しんでいた。後には辺野古建設に反対して頑張っていた。亡くなられて残念だ。
(元副知事、談)