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少年らで組織「護郷隊」 やんばるの山に軍民混在


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 沖縄戦当時、日本軍第32軍は沖縄本島の中南部地域に戦力を集中させ、北部への配属は、宇土武彦大佐率いる独立混成第44旅団第2大隊(宇土部隊)の約3千人ほどだった。脆弱(ぜいじゃく)な体制の下で、1944年10月以降、北部の青年学校に通う15~18歳の少年ら約1千人が臨時召集される。ゲリラ戦を任務とし、隊員間の相互監視まで強いられた護郷隊(第3、第4遊撃隊)だった。
 護郷隊の村上治夫隊長は、大本営参謀本部直轄で、諜報(ちょうほう)や遊撃戦などを専門とする、兵士を育成した専門機関「陸軍中野学校」の出身だった。護郷隊元隊員らの証言によると、少年らはゲリラ戦にそなえ、射撃や橋りょうの爆破訓練などを実施していたという。暴力によって支配され、隊員同士の殴り合いも強いられた。分隊長が隊員をスパイ容疑にかけ、別の隊員に射殺させるという悲惨な事件も起こった。
 米軍は4月1日に沖縄本島へ上陸後、7日には名護町(現・名護市)を制圧、13日には辺戸岬まで到達している。上陸前から名護の街は空襲や、艦砲射撃に襲われ、住民らは近隣の山々へと避難を余儀なくされた。後退した日本軍の兵士らは山の中に潜み、住民が避難する山間部では、民と軍が入り交じって、存在していた。
 山中では、兵士らによって食料の強奪や虐殺があったとの証言も数多く残っている。住民らは山中で常に緊張状態に置かれていた。その後、住民らは米軍によって各地の民間収容所へと収容されるが、収容所でも栄養失調やマラリアなどで多くの住民が亡くなった。