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沖縄戦の写真「杖の少年」が胸にしまった記憶 「イクサヤ、ナランドーヤ」…継承誓う研究家・賀数仁然さん


沖縄戦の写真「杖の少年」が胸にしまった記憶 「イクサヤ、ナランドーヤ」…継承誓う研究家・賀数仁然さん 「杖の少年」=1945年6月19日(沖縄県公文書館所蔵)
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 沖縄戦の写真「杖の少年」が胸にとどめた戦場の実相を、自分ごととして語り継がなければ―。琉球史を「楽しく伝える」ことで知られる賀数仁然(ひとさ)さん(54)は今、あえて封印してきた「私と沖縄戦」の発信を始めた。自身にとってこれまでにない、つらくて重いテーマだが、「少年」が身内だったことを今年、初めて公表した。生涯を寡黙で通した「少年」が戦場で見たものは何だったのか。その心の奥底に沈殿した塊を、いかに受け取って次代に渡すのか。体験者が急速に減る中、賀数さんは「非体験者による記憶継承」の形を模索する。

 1月、那覇市の県立芸術大で開かれた県主催のシンポジウム「首里城地下『第32軍司令部壕』周辺に残る戦跡・史跡」で、発言席の賀数さんが「少年」との関係を明かした。歴史を語る者として沖縄戦についても、いつか自らとの絡みを話さなければ。そんな思いを募らせ、シンポジウムで公表した。

糸満市の門中墓の前で「杖の少年」を語る賀数仁然さん(嬉野京子さん撮影)

 「少年」は賀数義弘さん。沖縄戦当時は11歳。2016年、82歳で亡くなった。義弘さんは門中の本家筋、賀数さんは分家筋に当たる。その姿を捉えた写真は、1945年6月19日、米軍が現在の糸満市で撮影した。県公文書館が所蔵し、広く提供している。平和教育の教材として活用され、賀数さんが初めて目にしたのも中学生時代だった。悲惨な情景に目を奪われたものの、自分と縁があるとは思いもしなかった。

 高校生になった旧盆の日、賀数さんが義弘さんの自宅を訪れると、居間のタンスの横に写真が掲げてあった。「これは自分。隣は父親」と義弘さんは短く言った。そして「イクサヤ、ナランドーヤ(戦争を起こしてはならんよ)」とつぶやいた。どんな体験をしたのか。詳しい話はしなかった。「いろいろあるけど、イクサだけは…。そこまで行ったら終わりさ」と言い添えた。

 95~97年に糸満市が実施した調査によると、合併前の糸満町と兼城、高嶺、真壁、喜屋武、摩文仁の4村の住民(45年1月現在)の戦没者の割合は、糸満が28・09%(1467人)、兼城が31・45%(1566人)、高嶺が同43%(1604人)、真壁が44・85%(2000人)、喜屋武が31・12%(647人)、摩文仁が47・69%(1189人)。義弘さんの家族も暮らしていた高嶺から摩文仁に避難中、3人が戦没した。

 これだけの戦没者を出した戦闘に、なぜ子どもが巻き込まれたのか。沖縄戦を戦った日本軍第32軍が「南部撤退」で司令部のあった首里から南下し、一帯が軍民混在の戦場になったためだ。米軍の猛烈な艦砲射撃、火炎放射による攻撃。日本兵による壕の追い出し、食料強奪…。地獄のような惨状を目にしたとして、11歳の身でどれだけ説明できるのか。

 賀数さんは感じる。その人が、語れないことと語らないことの事情に思いを巡らせ、背景を分析して何が起きたかを考え、伝える。それが歴史を語る自らの役割ではないか。戦後80年を前に、賀数さんの学び直しが始まった。

 (藤原健・本紙客員編集委員)