prime

<星雅彦さんを悼む>宮城篤正 沖縄美術評論の骨格形成


<星雅彦さんを悼む>宮城篤正 沖縄美術評論の骨格形成 インドのアジャンター石窟寺院の調査にて。(後列右から時計回りに)星雅彦さん、宮城篤正さん、大城精徳さん=1973年5月(提供)
この記事を書いた人 Avatar photo 外部執筆者

 詩人で美術評論家の星雅彦さんが1日、92歳で逝去された。半世紀を超える長い付き合いの友人を亡くし、とても残念に思う。星さんは晩年入退院していたが、昨年10月、入院先の病院から奥様のセツ子さんに付き添われ私を訪ねに来てくれたのが最後だった。その時に「詩集をあと1、2冊出したい」と、意欲を燃やしていた姿が忘れられない。まだまだやりたいこと、やり残したことがあるんだと。破天荒な一面もあったが、好奇心旺盛で、世界に視野を向け自分には何ができるのかを常に考え、行動に移す人だった。

  星雅彦さん

 戦後の沖縄は、美術や芸術評論の分野で他府県に大きく遅れを取っていた。1960年代、当時私は中学教諭だったが、画家の安谷屋正義と安次嶺金正の両先輩らを中心に毎月集まり、文化や芸術、音楽について幅広く語る「NEOの会」に参加していた。多角的な議論を交わすものの、沖縄に美術を論評する人がいないことに気をもんでいた。県内の美術界を振興発展させるには評論家が必要不可欠で、それなら自分たちで評論家を育てようとなり、当時、那覇市前島で画廊喫茶を経営しながら小説執筆などの創作活動をしていた星さんに白羽の矢が立った。それが星さんとの出会いで、沖縄初の美術評論家の誕生の瞬間でもあった。

 その後、私と星さんは画家で郷土文化研究者の大城精徳さんが立ち上げた総合誌「琉球の文化」の編集作業に携わったほか、やちむん会や新生美術協会などにも関わった。私たちに精徳さん、陶芸家の宮城勝臣さんも加わった4人組は、仕事終わりに夜の酒場放浪に繰り出しては、歴史や文学、芸能の話に花を咲かせていたことが昨日のことのように思い出される。

 星さんとはよく旅行にも出掛けた。特に思い出深いのは、精徳さんと3人で台湾やインドを巡った旅で、1カ月かけて現地の歴史を学び、文化や芸術に触れるぜいたくな体験だった。

 こんなエピソードもある。私が初代館長を務めた浦添市立図書館(1985年完成)と同市美術館(90年)の設計は、日本を代表する建築家の内井昭蔵さんが手掛けた。那覇から浦添へ引っ越してくる星さんに冗談半分で自宅の設計を内井さんに頼んだらどうかと話したら、本当に実現し立派な家を建ててしまった。

 評論家として、沖縄の美術評論の骨格を作った功績は大きい。詩人、小説家、戦史研究者、時にルポライターの横顔も見せた星さん。沖縄の文化・芸術を幅広く網羅し、独自の視点と感性で物事の本質を追究し続けた人だった。共に過ごした時間に感謝したい。

 (談・元県立芸術大学学長・美術評論家)


 星雅彦さんは1日、老衰のため92歳で死去。県文化協会顧問、美術評論家。県文化協会会長、浦添市文化協会会長、文芸誌「うらそえ文芸」編集長などを歴任。2013年度県文化功労者に選ばれた。