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沖縄バスケ、先人の思い花開く W杯開催地の沖縄市 街全体で準備着々<W杯沖縄開催 バスケ王国の系譜>12


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 ワールドカップ(W杯)開催地の沖縄市は、エイサーなどの伝統芸能や米国の影響を受けたロックなどが混ざり合う「ちゃんぷるー文化」が特色だ。沖縄全島エイサーまつりなどが大勢の観光客を引きつけるものの、市長の桑江朝千夫(67)は「大型イベントで瞬間的に人は来るが、年間を通しては来ていなかった」と話す。W杯の開催条件にされた沖縄アリーナの完成は、街に変化をもたらしている。
 

アリーナ効果

 もともと桑江が考えた最初のアリーナ構想は、バスケットではなく通年にわたって人を呼び込むことができるコンサート会場だった。2021年の完成後は世界的なチェロ奏者のヨーヨー・マなどがライブをしており、桑江は「アーティストが使用したいと思うような100年も続く建物にした」と力を込める。

一番街商店街に飾られたW杯のロゴなどがデザインされた提灯

 一番街商店街青年会会長の親川雅矢(34)は「統計は取っていないが、アリーナ完成後、商店街に来る人が増えている実感がある」と話す。市の2022年度観光統計調査によると、22年度に沖縄アリーナで行われた琉球ゴールデンキングスの20試合で、来場者の14・4%が観戦前後に一番街周辺に訪れた。前年度よりも3%増加した。

 アリーナ周辺にはホテルが3棟新設された。8月1日に開業した「REF沖縄アリーナbyベッセルホテルズ」は、大会期間中は約9割の客室が予約で埋まっているという。日本バスケットボール協会がまとめた試算によると、W杯の経済効果は県全体で約63億円、沖縄市で約4億7千万円とされる。
 

バスケとコザ

 もともと沖縄市はバスケとの関わりが深い。1947年の第1回全島高校大会はコザ高が優勝。54年に初めて全国総体に派遣されたのもコザ高だ。80年と98年にはコザ中が全国制覇を達成。沖縄勢が全国優勝した7回のうち3回が沖縄市内の学校だった。

 80年にコザ中で全国優勝した門脇直樹(58)は「大人たちと生徒の信頼関係があったからこそ優勝できた」と振り返る。監督の伊佐盛信や外部コーチの故・松島良輝、大勢のOB会「十球会」による指導のほか、当時、興南高監督の故・大田欣伸も毎週、高校生を引き連れて練習相手をさせていた。

 市中央公園の「恐怖の階段ダッシュ」など厳しい練習に耐えられたのは、楽しみだったOB会の炊き出しや食事会などがあったからだ。母子家庭も多かったが、OB会は貧富の差にかかわらず家庭には遠征費なども援助していたという。

W杯の出場国やロゴがデザインされたバックボード。多くの子どもたちが汗だくになってバスケットボールを楽しんでいた=7月22日、沖縄市の八重島公園(小川昌宏撮影)

 W杯開催について門脇は「戦後の何もない状態で始まったバスケが、世界の選手が沖縄に来るまでに成長した。先輩たちがつないできた思いが今になって花開いている。亡くなった先輩たちに報告したい」とうれしそうに話した。
 

ウエルカム体制

 6月10日、コザゲート通りなどで開かれたBリーグ琉球ゴールデンキングスの優勝パレードと報告会には約2万2千人のファンが押しよせ、バスケ界の熱気の高まりを示した。沖縄アリーナで開かれた1カ月前イベントには県出身のラッパー・Awich(エーウィッチ)さんらのヒップホップステージを行い、会場を埋め尽くした。大会期間中の週末は「welcome to okinawa city」と題してコザゲート通りで「コザフェス」も開かれる。

 映画館「シアタードーナツ」を営み、市の魅力を発信する「ちゃんぷる~沖縄市大使」の宮島真一(49)は、テレビ番組「コザの裏側」でW杯をテーマに飲食店などコザの魅力を伝えている。「開催がどれほどすごいことなのか、みんなに知ってほしい。街全体でW杯を楽しみたい」とうれしそうに話す。世界の人を迎え入れようと地元では着々と準備が進んでいる。

 (敬称略、古川峻)
 (おわり)