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<メディア時評・誤報に揺れた1年>思考停止は信頼に傷 事件報道の本質、再考を


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 2012年は報道界が「誤報」に揺れた年として記憶されるだろう。
 古くは、昭和新元号幻のスクープ(毎日)や、戦後すぐの伊藤律架空会見記(朝日)、少し前では1989年の三大誤報と呼ばれる、グリコ森永事件犯人逮捕(毎日)・宮崎勤アジト発見(読売)・サンゴ落書き(朝日)など、報道に誤報はつきものともいえる。しかし、報道の根幹である「正確さ」にストレートに関わる事項で、全体の信頼性を揺るがす問題だけに、対岸の火事視することなく、報道界全体でそこに伏在する問題を見つめる必要がある。しかも、事案によっては誤報をしてしまった自分も被害者である―との開き直りさえも見られる状況にあり、それは特定社だけの問題と思われないからだ。

■深刻性認識の欠如
 報道機関の宿命として、締め切りがある以上、迅速さとの相克のなかで十分な裏付けなしに記事化し、一定程度、最大目的の正しい事実の伝達を犠牲にする場合もありえる。
 確認作業が不足するまま、スクープ狙いで走ってしまったと思われる例が、10月に起きた読売のiPS細胞報道だ。ちょうどノーベル賞受賞直後だけに大きな話題となったが、後追いした日本テレビのほか、共同通信の配信記事を掲載した多くの地方紙が、後日お詫(わ)びをする結果となった。一方で、同じ持ち込みネタを怪しいと見抜いて掲載しなかった社があるものの、そうした社においても過去は同一人物の記事を掲載したことが図らずも明らかになり、検証に追われることになった。
 一方、兵庫県尼崎市を中心とする殺人事件の主犯格と目されている女性の顔写真の取り違えでは、10月末の毎日、読売、日経の在京各紙のほか、ここでも共同記事を掲載した多くの地方紙が、別人を容疑者として誤って掲載している。新聞以外も放送局各社や、筆者が確認できた範囲では10月下旬発行号の週刊朝日、サンデー毎日、週刊文春、週刊新潮が誤掲載した。そのほか、夏以降に断続的に続いたPC遠隔操作犯罪予告メール事件では、4人の誤認逮捕に合わせて、報道各社はほぼ例外なく実名で犯人視報道を行った(一部、少年については匿名)。
 興味深いのは、iPS報道では該当社はすべてお詫びをしているが、写真取り違えではお詫びをしたりしなかったりバラバラで、PC事件では、筆者の知る限りお詫びした媒体は存在しない。このことは報道界全体として捉えた場合、後二者については、少なくとも深刻な誤りとは捉えていない節があることだ。要するに、やむを得ない「小さなミス」と考えているのではないだろうか。

■問われる報道倫理
 確かに、広義の誤報のなかには、もっとも悪質な無から有を作り出す「捏造(ねつぞう)」に始まり、針小棒大に扱うことで読者を騙(だま)す「虚報」、間違った事実を伝えてしまったいわゆる狭義の「誤報」、そして結果的に誤りではあるが記事化の段階では正しいと判断しえた「結果誤り」といった、グラデーションが考えられている。それからすると、最初の二つ(「捏造」「虚報」)は深刻な誤りでお詫びに値するが、あとの二つ(「(狭義の)誤報」「結果誤り」)は、それほど悪質重大ではないとの判断が各紙誌にあるのだろう。
 それに加え、すでにほかが報道している安心感があったに違いない。これは、他紙誌に頼ることによる思考停止にほかならない。みんなで渡れば式の悪しき横並び意識や、他力本願で確認作業を軽んじることは、何気ない写真一葉や記事一行が、被報道者の名誉やプライバシーを傷つけ、人生を変えることすらあるということに対する思い、書くことへの覚悟が欠如していることの表れだ。
 捏造や虚報が起きた場合は大騒ぎをするものの、狭義の誤報や結果的な誤りは事件報道にはつきものとして、通り過ごしてしまいがちだ。とりわけ誤認逮捕に関しては、警察捜査のミスであって報道した新聞等には責任はないという態度がはっきりしている。
 しかし、むしろ構造的な問題を孕(はら)んでいるのは、こうした日常的に起きる可能性がある誤報群だ。誤報を防ぐには、そもそも警察発表を基にした逮捕時に、報道のピークをもってくる日本的事件報道の「慣習」自体をもう一度考え直してみる余地があるのではないか。あるいは、何がなんでも被疑者の顔写真・実名が必要だというのは、報道機関の「思い込み」にすぎない可能性はないか。少なくとも20年も前の写真を掲載するのは、どんな顔か見てみたいという覗(のぞ)き見的な「好奇心」の発露であって、それは事件報道の本質であるとともに、人権侵害のきっかけでもあることに思いを馳せる必要がある。
 もちろん、さらにさかのぼればこうした一連の犯罪報道の必要性自体も議論の遡上(そじょう)に登る可能性があるが、いずれにせよこれらの日常的な誤りの積み重なりによって、媒体の信頼性が傷つけられていることを、もっと真剣に受け止める必要がある。
(山田健太 専修大学教授=言論法)
(第2土曜掲載)