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<メディア時評・第三者機関の意味と意義>外部の目活用を 倫理向上、信頼性回復へ


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 不祥事があると、その企業のコンプライアンス体制が問われることが多くなった。同じことはもちろん、メディア企業にも当てはまる。最近の事例でも、週刊誌の少年事件加害者や、アルジェリア人質事件の被害者の実名報道に関し、メディアは身勝手だ、などの厳しい批判が寄せられた。こうした声を反映してか、司法の場でも繰り返し同じような報道を続けることは、社内に構造的な問題があるとして、メディアに対し高額賠償を求める判決が続いている。それでは、記事や番組に問題があった場合、どのような対応をとってきたのか、あるいはとるべきなのか。

■「法令」と「倫理」
 一般企業の場合は会社法によって、社長が音頭をとり社員が違法行為をしないよう、日ごろから社内体制を整備して、しっかり目を光らせることが求められている。内部統制義務と呼ばれるものだ。したがって、収益を上げたいがために、社員に脱法行為をそそのかすなどはもってのほかだし、見て見ぬふりをしたり、商品やサービスに問題が生じていることの指摘があったにもかかわらず、その改善を図らず放置する行為などが、広く処罰の対象となっている。
 さらには、こうしたコンプライアンス上の重大なトラブルが発生した場合は、その問題の所在と解決方法を、当該企業の内部努力や自浄作用に求めることは困難だと判断したり、企業としての禊(みそぎ)を対外的に示す方法として、外部の有識者や法律専門家(弁護士)に検証作業を委託することも一般的だ。もちろん一般企業にとどまらず、最近では大津いじめ自殺事件における地方自治体の外部委員会や、まさに原発事故における政府や国会の事故調査委員会においてもみられるようになってきている。
 こうした外部検証機関による問題の摘出は、報道機関でも過去になされてきた。有名な例では、講談社の少年供述調書掲載事件や、関西テレビの番組捏造事件がそれにあたる(拙著『ジャーナリズムの行方』参照)。
 ただしそこで問題になるのは、一般企業の場合は「法令遵守(じゅんしゅ)」がキーワードであって、それが善し悪しの判断基準になることがはっきりしているのに対し、メディアの場合の基準は必ずしも法律がすべてではないことにある。誤解を恐れずにいえば、法を破ることこそが取材の真髄であるし、報道の常道であるからだ。例えば、隠された政府内の情報を入手するために、公務員に接触して内部情報を入手することは一般的だ。それなしに、沖縄密約や原発事故の真相は闇の中に埋もれてしまうだろう。まさに、公務員法で定められた守秘義務を破って、情報を漏らしてもらうことをそそのかす行為を、記者は日常的にしているわけだ。
 あるいは事件・事故を伝える場合も、当事者のプライバシーや名誉をまったく傷つけない記事はまずありえない。その時の基準は、法ではなく報道倫理であって、「倫理の遵守」こそが大命題であるわけだ。
 さらには、同じ品質の画一的な商品やサービスを提供するのが一般的なメーカーのありようであるのに対し、記事や番組といった「商品」の中身はそれぞれで大きく異なり、統一的な基準をもって判断をしづらいという問題もある。しかも一方では、報道された当事者にとっては人生が大きく狂うほどの大問題であることも少なくない。
 だからこそ、多くの報道機関は以前より二重三重の社内チェック制度を設け、発信情報に誤りや問題が生じないよう努力をしてきたともいえる。さらには2000年頃から、例えば新聞であれば社外の有識者で構成された紙面検証機関を新設し、判断の正否を外部の目で確認するようになってきている(本紙でいえば、01年設置の「読者と新聞」委員会がそれにあたる)。

■社会的責任の発露
 しかし、少なくとも報道界全体でみた場合、こうした制度が十分に機能しているとはいいがたいのが現実だ。新聞でいえば、全国にメジャーな新聞社は約80あるが、そのうちこうした組織を常設しているのは半数程度で、しかもその多くは年に1~2回の開催で、一般的な紙面への注文をするにとどまっている。個別具体的な記事の改善要求や、読者からの苦情対応をしている社はゼロに近い。そうしたなかで、新聞ではないものの『週刊朝日』の大阪市長を巡る差別表現に関する朝日新聞社の対応は、個別救済を目的とした稀有(けう)な例だ(ただし判断基準や決定過程などの点で疑問は残る。日本編集者学会編『エディターシップ』2号所収の拙稿参照)。
 商品に瑕疵(かし)があった場合、あるいは商品のアフターサービスの一環で疑問や質問に応えるのは当然だ。一般企業のサービスセンター(お客様窓口など)同様に、報道機関もいまや組織的に問い合わせや苦情に対応するようになった。しかしその対応が透明性に欠け、結果的に読者の不信や不満を増幅させる結果になっている例も見られる。
 あるいは、検証結果の報告を読んでも、先に挙げた倫理という見えづらく分かりづらい基準を丁寧に説明しきれず、自己正当化にとどまっていると思われるものも少なくない。さらにいえばそもそも、外部委員による組織といえども、その委員の選考も含め本当に「第三者性」が担保されているのか疑わしいともいえる。
 報道機関が公共的な社会的役割を担う機関として、他のメディアとの差別化を図るのであれば、まさにこうした自らの拠って立つ取材・報道基準を、外部の目で日常的に検証し、個別の苦情に対し「読者代表」である外部委員が対応策を示すことが必要ではないか。それは幾多の重要にして特別な権利を享受してきた報道機関の、社会的責任の発露でもあるだろう。
 そうしたなかで、読者の権利救済などの苦情対応を「部外者」に委ねることを、編集権の侵害であるとして、かたくなに拒み続けることは、確かに紙面の外部介入を絶対的に阻止するという点では美しい。しかし、むしろそうした独立性は、国家権力や地元経済界との関係の中で発揮すべきであって、読者との関係で主張するものではないと思う。報道界全体の倫理の向上と、それによる信頼性の回復が、まさに喫緊の課題であって、そのための具体的な対応策をとる必要がある。むしろ国家からの介入を受けないためにも、その危険性に直面しつつある沖縄の活字メディアが共同して、こうした組織を作ることは表現の自由を守る上でも有意義だし、日本の報道界のモデルとなるだろう。
 (山田健太専修大学教授=言論法)