ギンバルでミサイル跡地撤去 住民、核間近に恐怖


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米軍の核弾頭搭載可能な中距離弾道ミサイル「メースB」基地の撤去現場。左側は地下施設。右奥は格納庫の排気口=4月23日、金武町のギンバル訓練場跡地

 【金武】2011年に返還された金武町のギンバル訓練場跡地で、核弾頭を搭載できる中距離弾道ミサイル「メースB」基地跡地の撤去工事が進んでいる。米国統治下の沖縄では冷戦の影響で大量の核兵器が配備され、住民は核と隣り合わせの生活を強いられていた。

メースBもその一つ。搬入をめぐり、1961年に外相が政府への批判をかわすため「ひっそりとやってくれ」などと事後発表を米側に求めた記録が残る。日米史研究家の新原昭治氏は「対米追従で沖縄をどうにでもしてくれという政府の姿勢は今も変わらない。その問題を象徴する基地がなくなっても、歴史を語り継ぐことが重要だ」と指摘する。
 60年代の米軍ギンバル訓練場内ではミサイル基地だけはフェンスに囲まれ、24時間の監視が行われる厳戒態勢の中、訓練が行われていた。
 ミサイルを載せた大型トラックが基地に着くと分厚い鉄扉がゆっくり倒れて開き、米兵らが慎重にミサイルをレールに乗せて格納庫に収めた。格納庫から弾頭付近をのぞかせたミサイルがエンジン調整とともに排気音を響かせると、格納庫後方から地上に伸びた排気口から煙が吹き上がる。射程2400キロ、1・1メガトン以上という広島原爆の70倍以上の核爆発力を有するメースBミサイルの基地は、いつでも発射できる態勢を維持していた。
 同基地に近い中川区に住む浦崎直秀さん(59)は少年の頃、訓練を見たが怖いとは思わなかった。しかし、約37年前、ミサイルが撤去された後に基地に入り、格納庫の鉄扉の撤去作業に関わった際、恐ろしさを感じた。間近で見る基地の壁や鉄扉は核の威力を示すかのように厚さが1メートル以上もあった。作業時、留め具を外した鉄扉が前方に倒れた衝撃と風圧で正面に止めていたクレーン車の窓が割れる事故も起きた。「核を扱う基地はこんなにも頑丈なのか」。地下室には複数の大型エンジンが置かれ、隣には部屋、さらに奥にはエレベーターなどもあり、不気味な暗がりの中「生活の近くに核があったと思い知らされた」。
 そのような光景は、1961~62年にメースBが配備された、金武町を含む、読谷村瀬名波、うるま市勝連、恩納村谷茶の基地周辺でも同じだった。63年に読谷のミサイル基地を訪れた新原氏は畑や集落の近さに驚いた。
 新原氏は「かつての被爆国が国民からの核の抗議を避け、基地建設を優先する政府要人の心情は想像を超える」と話す。「沖縄への大量の核兵器配備問題の典型的事例がメースBだ。米国統治下の沖縄をどうにでもしていいと切り捨てる、ばかにしたやり取りだった」と語った。(嘉陽拓也)

<用語>中距離弾道ミサイル「メースB」
 核弾頭を搭載できるミサイル。琉球立法院は1960年に搬入反対の決議を採択し、大きな反対運動も起きたが、61~62年、県内4カ所に半地下式の発射基地が整備され、8基ずつ配備された。70年までに全てのミサイルが撤去された。