尖閣に測候所計画 元気象台職員・正木さん、資料保管


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 太平洋戦争中の1943年に、中央気象台が「尖閣群島測候所」の建設を計画していたことを示す資料が29日までに見つかった。元石垣島地方気象台職員の正木讓さん(79)=石垣市=が「尖閣群島調査報告書」などの資料を複写して保管していたもので、内容を分析したジャーナリストの三木健さんが近く発売の学芸誌「環」(藤原書店)54号に発表する。

当時の石垣島測候所と中央気象台との間の暗号電文もあり、戦局悪化とともに計画が立ち消えになった経緯が分かる。
 尖閣諸島は、明治政府が1895(明治28)年に魚釣島、久場島を沖縄県とする閣議決定を行い、実業家の古賀辰四郎氏が、かつお節工場を建設するなど開拓した。一時は定住者もいたが、1940年までには再び無人島になっていた。
 三木さんはこの時期の測候所計画について「当時は石垣島と台湾の間に測候所がなく、台湾沖で発生する『台湾坊主』と呼ばれた南岸低気圧の情報を得る必要があっただろう」と指摘。「南方戦線への補給路確保のために海軍が石垣島に建設していた南飛行場が44年に供用開始の予定で、沖縄や台湾の防衛も緊迫していた。海上輸送や航空機の航行確保が迫られていた」と背景を分析している。
 全21枚の「調査報告書」は尖閣測候所の具体的な構想を記し、43年8月3日付で石垣島測候所の大和順一所長名で中央気象台に提出されている。勤務人員は観測員9人、通信士2人など計14人で、年間3交代の滞在勤務を想定。山頂測候所庁舎、山麓観測所などを検討し、敵艦船への警戒として山砲などで武装する必要性にも言及している。
 このころの通信記録を見ると、実地踏査のために調査船を送るよう石垣島測候所が再三要求するものの、中央気象台は調査船となる海軍警備艇の調達に難渋していることを繰り返し伝えている。44年1月8日の中央気象台からの電信は「時局下資材ヲ要スル新規事項ハ全般ニ亙(わた)リ不可能ナ状況」と、新年度予算が組めない国家財政の窮乏から事実上の計画停止を現場に通達している。
 一連の資料は、1970年ごろに正木さんが石垣島地方気象台で資料整理していた際に発見し、複写をとって個人で保管していた。原本は廃棄された可能性が高く、現在の気象台庁舎には現存していないという。
 正木さんは「戦後は西表、与那国に測候所ができ、尖閣を検討することはなかった。戦中の構想も実際に着手しようとすれば山岳地形や波浪など困難が多かったはずで、測候所としての利用価値は低かっただろう」と語った。(与那嶺松一郎)

「尖閣群島調査報告書」(複写)の一部
尖閣への測候所建設計画をめぐる戦前資料について語る三木健さん=浦添市内の自宅